あなたに捧げる、ウイニングボール
Pawapuro7 Short Story

 

 それはいつもと変わらない夜のことだった。試合を終えた俺たちはそのまま都心にある高層マンションの一室へと入ってゆき、遅めの夕食を取り終わったその直後のこと。

「ねえ、明彦くんのお父さんってどんな人?」
 彼女、早川あおいは、目の前に置かれたホットコーヒーに口をつけると、ぺろりと舌で唇をなめた後そう俺に話しかけた。
「また唐突な質問だな」
 俺は両手を広げ、苦笑したように笑った。
 俺たちが交際を始めるようになってから、おおよそ半年ほどの時間が経過した。それは早かったようでもあるし、遅かったようでもある。周りから凸凹カップルやらきっと一ヶ月以内に破局するやらなんやらと言われていた俺たちだったが、それでもなんとか今まで問題なくやっていけたのは、きっとお互いが心底信頼し合える関係を築けたからなんだろう。
 これまであおいは一度も俺の家族構成について聞き出そうなんてことはしなかったし、俺もそんなことを問うたことはなかった。なのに、今になって急にそんな話題を振るなんて、一体どういう風の吹き回しなのだろうか。
「あおいも知ってのとおり、俺の親父は一文字コンツェルンの社長だ」
 一文字コンツェルン。いまや日本全体を牛耳るといっても過言ではない大企業。俺はその社長令息としてこの世に生れ落ちた。その頃から両親の異常ともいえる英才教育のせいで、俺の生活は同世代の人間とは比べ物にならないほど自由に飢えてきた。もっともその事があったからこそ、今俺はプロ野球選手として成功することが出来たのだろうし、最高球速の日本記録をうち立て、シーズン最多奪三振の記録も出すほどの投手として成長できた。しかしそれでも――俺は両親を敬愛する気にはなれなかった。
「厳しい人だった。能力のない人間は人間として見られないようで」
 俺の言葉に、あおいはびっくりしたような表情を見せて、その後しゅんと俯いてしまった。
「ゴメンね。明彦くんも家族のこと話さないから何かあるのかなって気になって」
「あおいはどうなんだ?」
「え?」
「明彦くん“も”といって、あおいはどうなんだ?」
「ボクは……」
「……」
「ねえ、明彦くん」
「うん?」
「ボクの球、少しは良くなった?」
「今日のお前は何時に無く唐突だな」
「ねえ、どう?」
「……ああ。ようやくプロらしくなったんじゃないか?」
「むー、ひどい! もうプロで4年目だっていうのに」
「それで、どうしてそんな質問を」
「あのね、明彦くん」
「ああ」
「ボクね」
「ああ」
「お父さんに、会いたい」

 それからあおいが話したことは、今でも胸に焼き付いている。それは俺の心をひどくえぐっていったし、衝撃的だったから。あおいが野球をやっているのは野球が好きだからだと思っていた。いや、そう思わないほうがおかしいというものだ。俺はそれを当然のように思っていたし、疑うことなんてしなかった。しかし、それは間違いだった。その日その時間、あおいが放った言葉はこのようなものだった。

「ボク、お父さんに復讐をするために野球を始めたんだよ」

 

 

 それで俺は今、有楽町にある喫茶店の前に立っていた。背負っている大きなスポーツバッグの中には幾つかの文庫本が入っているのだが、それも全てすっかり読みきってしまい暇をもてあましている。約束の時間まで後15分ほど。俺はどうしたものかと顔を振ると、そこに待ち合わせた人物らしき人影がこちらに向かって歩いてい来るのを確認した。
 茶色がかった髪の毛をオールバックにし、肩まで伸ばしている。口元に生やした豪快な口ひげと鋭い目。FAで移籍を繰り返しながらも毎年首位打者・最多本塁打・最多打点のどれかには必ず名前が上がるというスーパースター。もう40を超えているだろうにそんな記録を打ち立てている、いわば俺にとっては雲の上の人物である人を呼び出すのは流石の俺もいささか緊張をしてしまった。
 彼、武蔵雷蔵(むさし らいぞう)は俺の顔を確認すると、にこりともせずに手で合図をした。
「早いな、一文字」
 俺はいえ、とだけ答え会釈をした。
 あおいの話を聞いたとき、俺はこの人に聞くしかないと思っていた。あおいの父親がプロに入団したのが20年前。時期的に武蔵がプロ入りしたのとほぼ符合するため、何か知っているかもしれないと思ったのだ。
 俺は武蔵と共に喫茶店へと入ると、アイスコーヒーを二人分注文した。
「今日はどういう用件だ? 急に呼び出すなんて」
 ウェイトレスが水を運んでくると同時に武蔵がそう話しかけてきた。ひどくサッパリしている性格だな、と俺は思った。何もいきなり用件を聞き出すこともないだろうに。俺はそのとき、何かが引っかかっている様な思いをした。
 武蔵と話すのは初めてだ。だが、俺は彼を知っているような気がする。その口調、その雰囲気。
 自分の胸が少しだけ高鳴るのがわかる。その理由は、きっと……。いや、そんなことはどうでもいい。
 先ほどよりも更に緊張が増してくる。俺は、神経を研ぎ澄ませるようにして口を開いた。
「武蔵さん。俺と早川あおいが交際しているのは知っていますか?」
 俺の突然の質問に、武蔵は表情も変えずに黙り込む。しかしやがて無言で頷いた。その時の間が窮屈に感じられたが、俺は内心更に増してきた胸の高鳴りを気づかれないように必死だった。
「それで、あおいが父親を探しているというんです」
「ほう。父親が失踪でもしたのか」
「まあそんなところですね。それで武蔵さん、貴方なら何かを知っているのかもと思って」
「俺は知らんさ。何も」
「いいですよ、嘘をつかなくても」
 そう俺が話したとき、ウエイトレスがアイスコーヒーを運んできた。俺は片方を武蔵の方へと預け、自分のコーヒーに口をつけた。
「貴方は、あおいの父親が誰だか知っているのでしょう?」
 なんのことはない。これはただのカマだ。しかし――俺は、勝算も無くカマをかけるほど馬鹿ではない。
 俺はようやく気づいた。武蔵のその手振りや、瞳。そして雰囲気に誰を重ねているのか。何故今まで気づかなかったのが自分を殴りつけたいほどだ。

 武蔵は、あおいにそっくりではないか。

「いや、知っているのでしょう、という言い方は適切ではないのかもしれませんね」
「もういい」
 武蔵が目を伏せ、小さく口を開いた。
「もういい」
「もういい、とは?」
「お前は、もうわかっているのだろう?」
 その瞬間、俺の心の中は安堵と勝利の快感に包まれていった。

 

 

 それから武蔵と共に足を運んだのは、建設中の『一文字ドーム』であった。何やら親父がプロ野球の球団をつくるとかで、そのホーム球場にしたいらしいのだが……。とにかく親父の酔狂もたまには役に立つ。俺は一文字ドームの中、ちょうどマウンドに当たる辺りまで歩いてゆき、武蔵の方へと振り向いた。
「あおいはあなたに復讐をするつもりです」
 俺は背負っていたスポーツバッグを下ろし、そこからボールとグラブを取り出した。
「野球のために全てを捨てたあなたを野球で完膚なきまで叩き伏せたいと」
「そうか。そんなことを思っていたのか」
「先ほどの話……どうもあおいと食い違っているようですけどね」
「あの頃まだあの子は小さかった。そんな風に思っていても仕方が無い」
 そう。あおいは武蔵が母親を捨てたと思っている。しかし、実際はそうではない。武蔵は騙されたのだ。借金返済のために多額の金銭を約束されて、それを反故にされてしまった。だから帰ることも出来ず、結果的に妻を置いてしまったと。
「それで俺に復讐をしたいというのなら、俺はそれを受けるまでだ」
「ですが」
 俺はスポーツバッグをあさり、そこからバットを取り出した。驚いたように見つめる武蔵にそれを手渡すと、俺はマウンドで構えを取った。
「今のあおいでは、あなたには勝てないでしょう。……わかりますか、武蔵さん。俺が今日あなたに会ったのは、あなたの実力が見たかったからなんです」
 武蔵がバッターボックスに入ったのを確認すると、俺は左足を上げ、思い切り投球した。サイドスローから放たれた硬球は武蔵のストライクゾーンど真ん中に決まり、後ろのネットに当たり落ちていった。
「俺と勝負してください、武蔵さん」
「下手な芝居だ」
 武蔵が、構えを取った。その瞬間、俺は身震いするような威圧を感じていた。貫かれるような目線。一瞬俺は、どのコースで投げても打たれるような錯覚に陥っていた。そうだ、そこにはプロで20年間輝き続けた男の姿があったのだ。
「お前が何故俺に勝負を挑んだのか、それが手に取るようにわかるようだ」
「どういうことです?」
「俺の実力を見たいからではない。……ここで俺を打ち取り、来たるべくあおいとの勝負の前に自信を喪失させようというつもりだろう?」
 俺は、ぐっと下唇をかみ締め武蔵を見続けた。
 何故この男には俺の本心がわかる? ……俺は、構えをといて声を出した。
「……もしかしたら、俺は汚いのかもしれません。あおいが20年も抱き続けた思いを根底から壊そうとしているのかもしれません。あおいのためにもならず、自分のためにもならない無為なことをしようとしてるのかも。それでも」
 俺はもう一度、武蔵を見つめた。――もう、威圧は感じられなかった。
「俺にはこうするしか出来ないんです」
 また、俺を射抜くような目線が襲ってきた。俺は目を瞑ることも出来ず逃げることも出来ず、ただ武蔵を見つめている。
「一文字。確かにお前は大した投手だ。20歳の若さで160キロを超える速球など、誰にでも投げられるものでもない。スーパールーキーだとも思う。だが」
「だが?」
「それだけで、俺に勝てると思ったのか?」
 ぶん、と武蔵が素振りをした。球場の端まで届きそうなスィング音――自分の投げたボールが打ち取られるようなイメージが鮮明に――。
 ――やめろ。
 ――俺に威圧をかけるんじゃない。
 俺は――俺の右手は――また再び――。
「やめてーーーーーーっ!!!!」
 ――危うく、また投球をするところだった。何千何万と投げた体が覚えているそのモーションに身を委ねるところであった。俺は、ずいぶんと無理をして入り口のほうへと目をやった。そこには――俺の愛する、早川あおいの姿があった。

 

 

「なんでここにいる?」
 慌てて駆け寄った俺を見つめ、あおいはぐ、と俯いた。心なしか震えている。俺はあおいの肩に手をかけようとして――。
 ぱぁん、という甲高い音が俺の耳を貫き、その後頬が焼けるような熱を帯びてきた。平手打ちをされたのは初めてだな――俺は、場違いにもそんなことを思っていた。
「どうして? どうして何も言ってくれなかったの!?」
 俺は答えることが出来ず、ただ黙り込んでいた。
「ボクは、ボクはずっと自分のことだけ考えて野球をやっていたのに、どうして君はボクのことばっかり考えるんだよ!」
 あおいの目はすっかり充血して、そこから一筋の涙がぽろりと零れ落ちた。涙を拭こうともせず、ただ真っ直ぐに俺を見つめる目線が、痛かった。
「――武蔵さんがボクの父親だなんて知らなかった――」
「あおい、違うんだ。武蔵さんはお前の母親を捨ててなんかいない」
「え?」
 俺は、事の顛末を簡単にあおいに説明した。あおいがそれをわかってくれたかはわからない。ただ、先ほどよりも大きく泣き声を上げる彼女を、俺はただ強く抱きしめるしか出来なかった。
 俺の胸の中で泣きじゃくるあおいは次第に落ち着いてゆき、やがて時折しゃっくりをするほどになってきた。俺を見つめる真っ赤な目は、何を思っているのだろう。不安感か、安堵か、それとも――。
「ボクは、どうすれば――」
 この二人を繋げることなんて、きっと俺には出来ない。そんなもの他人が踏み入れる領域ではないに決まっている。それでは今の俺には何が出来る? 俺は、さんざん迷った挙句、意を決して踏み込んだ。
「勝負してみろよ、あおい」
「え?」
 あおいが俺の差し出したボールをぼんやりと見つめる。
「道に迷ったのなら、原点だ。お前は武蔵さんと勝負するために来たんだろう?」
「でも、今更そんな――」
「投げてみろ」
 バッターボックスに立つ武蔵が、低い声でそう割り入ってきた。
「あおい。お前が培った全てを、この俺に見せてみろ」
「武蔵さん」
 俺から受け取ったボールを握り、あおいは大きく首を縦に振って見せた。
 その様子を見て、俺は一文字ドームの出入り口へと向かって歩を進めた。あおいが投げたたったの一球勝負。いや、それは最早勝負ではなかった。あおいが、そして武蔵がこの先歩き続けるために必要な一球になるはずだ。だから、俺はその後のことは知らないし、あおいに聞こうともしなかった。
 けれど俺は知っている。あれはプロ1年目のオフだった。あおいは俺の住むマンションの一室へとやってきて、ウイニングボールを教えてくれと眩しい笑顔で言っていた。その時にあおいが覚えたボールが、今の早川あおいを形成するのに必要不可欠な『マリンボール』だった。今思えば、あのマリンボールは武蔵との勝負に勝ちたいがために覚えたものだったのだろう。だからきっと、あの日あおいが投げたのは、彼女の最も得意とするウイニングボールだったのだろうと思う。
 それが打たれたかどうかはわからない。ただ、俺と二人で生み出したボールが彼女の人生を決めるほどの場面で使われた。そのことを俺は、これ以上も無いくらいの幸せに感じていた。

 

 



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