#13.成就

 

 真夏のような眩しい太陽が瞼の上を覆っている。足立は右手で影を作りながら学校を目指し歩いていた。短い春休みを終え今日から新学期が始まる。こんなにいい天気の晴天に恵まれたのは、どこか幸先が良いような気持ちにさせてくれた。ほんの少しだけ首元に息苦しさを感じるのは、ただ制服が小さくなったからだった。
 昨夜桐島からメールがあった。内容は進級に伴ってこれからの野球同好会をどうするかミーティングしたい、というような内容であった。さいわい今日の授業内容は午前中のみなので、ミーティングは昼から行われる、ということであった。多分議題は新入生を何人勧誘できるか、あとは公式試合への参加表明などか。そんなことを考えながら、足立は思わずひとり苦笑してしまっていた。
 今の自分は、授業のことなど何一つ考えていない。
 中学の頃から考えると、信じられないことだった。大阪では進学校で有名だった篠原東中学にいた頃。中でも三年生にあがった頃は本当に朝から夜まで勉学に励んでいたものだ。分厚い参考書を買いあさり、教科書を読みふけり、自主勉強で書き写したノートは10冊をゆうに超えるほどであった。もともと勉強が好きな足立は、自分の時間を好んで勉学に使っていた。それがいまや、野球なんぞに精を出しているというのだからなんともおかしい。
 部活動に熱心になるのも一つの青春であると感じつつも、やはり自分を叱咤する感情があったのも否めなかった。もともと卒業後の進路など少しも考えていないのだ。それならば臨機応変に対応できるよう、基礎学力は大事にしなくてはいけない。足立は改めてそんなことを思っていた。
 恋恋高校の校門をくぐったとき、強い風が横殴りにやってきた。
 そのとき、方々に咲いた桜の花弁が散り、ふわりと足立の頬を撫でた。いくらか体に浴び、足立はふっと悲しそうにも見える微笑を浮かべる。唇に引っかかった花びらを指で掬い、地面に向かって振るって落とした。もう、すっかり春なんだ。そんな言葉が頭に浮かんできた。肩についた花びらを落としながら、足立は右腕につけた腕時計に目を落とす。時刻は7:45を示している。朝のホームルームは8時30分からなので、ずいぶん時間が余っている。足立はなんとなく足をグラウンドに向けた。
 彼女がいた。
 期待しなかったわけではない。しかし、期待していたわけでもない。なにせまだ早朝というべき時間帯だ。足立は腹の底から沸きあがる感歎を抑えきれずにいる。
「あれっ、足立くーん」
 彼女が遠くから大きな声で呼んでいる。足立は右腕を上げ、とびきりの笑顔で応えた。
 彼女、早川あおいとはじめて出会ってのも今日のように風の強い春のことだった。彼女はやはり変わらない。少女のような丸くて大きな瞳も、風にたなびく馬の尻尾のような髪の毛も、女性らしいとは言いがたいがスポーツ選手として相応しい引き締まった体系も、足立を惹きつけて止まないままだ。
「おはよ、足立くん」
「うん、おはよう。あおいちゃん」
 足立は片手に持っていた文庫本をズボンのポケットに乱暴に突っ込むと、彼女に負けじと全力の笑顔で返事をした。
「朝から精が出るね。まだ八時前だよ」
 足立がそう言うと、あおいはえへへ、とてれたように笑い、その後口を押さえて欠伸をした。
「なんだか早くに目が覚めちゃってね。せっかくだから練習してたんだけど、さすがに時間が経ってきたら眠くなってきちゃったよ」
「まあ今日はホームルームだけの午前授業だからまだマシさ」
 足立は左手を入れると、くるりと校舎の方を振り向いた。
「新入生、何人くらい入ったのかな」
「……うん」
 現在野球同好会に選手として所属する生徒は七人。最低でもあと二人は入ってくれないと存続に関わってくる。もっとも都川とあおいのポジションがかぶっているので、出来れば三人以上欲しいところなのだが。
 足立はしばらくそんなことを考えながらぼんやりと校舎を見つめていた。
 あおいはグローブを外し、それを左手で抱きかかえるようにして持つと、右手を足立の肩に乗せた。ゆっくりと足立が振り向く。よく思案に耽る彼は、そんなときに決まってどこか寂しそうな目をしていた。あおいは足立にはいつも笑顔でいて欲しいと思っている。
 あおいはゆっくりと、自然に笑って見せた。
「大丈夫だよ、足立くん」
 一瞬、足立の目が大きく見開かれた気がする。あの寂しそうな想いを携えたまま。しかしその後すぐに足立は笑顔を見せていた。あおいの大好きな、優しい瞳で。
「うん。そうだね」
 そのとき、足立は体を一瞬すくませた。それと同時にあおいの体もぴくりと動く。
 携帯が震えている。足立とあおい、両方の。
 二人は目線を合わせ、苦笑にも似た表情を見せると同時に携帯を取り出して開いた。どうやらメールが届いたようである。差出人は、桐島潤であった。

From:桐島潤
To:朝倉和巳
To:酒井涼一
To:都川光一
To:七瀬はるか

Sub:おはよう!

今日のミーティングについての詳細です。内容は今年の新入生の勧誘についてと今後の野球同好会を部活動にするにあたってを検討したいです。時間は12:30から、新校舎の二階、生徒会室を借りて行います。遅れないように!

 

 

 このところの陰々とした気分の原因は、きっとあまりに思わしくなかった試験の結果にあるのだろう。酒井涼一は野球部で唯一、学年末試験で赤点を取ってしまっていた。それも、三教科に渡って、である。もともと自分が成績優秀な方でないことはよくわかっている。それでも勉学でも有名であったあかつき中学に在学できたのは、ひとえにスポーツ特待があったからだ。しかし酒井は中学で野球をやめ、ここ恋恋高校へと入学した。
 もともと彼が野球部をやめるにいたった理由は、彼と同期の選手とそりが合わなかったからであった。小田切勇(おだぎり いさむ)という当時の主将はあかつき中学の学風に相応しい、文句の付けようもないほどの完璧主義者だったのだ。どれだけ練習を怠けようと、小田切は決して注意の一つもしなかった。しかしその代わりに練習態度では文句のつけようのない生徒でも、試合で結果が出せなければ罵詈雑言を浴びせたものだった。役立たず、ゴミ、クズ――酒井はそんな小田切のやり方についていけず、つい口を挟んでしまった。が、当の小田切は涼しい顔で『何が間違っているんだ?』と反論して、監督もマネージャーも、チームメイトですらそれに賛同していた。
 ――ここは、狂っている。
 酒井は小田切やチームメイト達と派手に口論をかわし、めでたく野球部と喧嘩別れしてしまったというわけだ。あまりに結果主義のあかつき中学に嫌気がさし、エスカレーター式に決まっていたあかつき高校への進学も放り出してしまったのだ。それで何故恋恋高校を受けたのか。それは、野球部がないからという理由一つである。近隣のパワフル高校、そよ風高校、聖皇学園、その他はすべて野球部が存在した。酒井は中学野球ではちょっとした有名人なので、きっと五月蝿く勧誘されることだろう。それがわずらわしく思ったため、酒井は野球部がないと思う高校に入ろうと決意したのだ。そんな理由で入学は可なり難しいことはわかっていたが、恋恋高校を選んだ。
 二年末で野球部を出たので、勉強する時間は丸一年あった。だが、酒井はもともと勉強が得意な方ではない。場合によっては一年留年してもいいと思っていたのだが、去年こうしてストレートで合格が決まったときは誰よりも自分が驚いていた。
 恋恋高校に入学して、早一年。いつの間にか自分はまた、野球に手を染めている。肉刺だらけの手を、陽に焼けた肌を見るたび思う。自分はいまだ、野球から離れさせてはくれないのだ。
「酒井さん」
 首をかしげ、酒井が振り向く。酒井を呼んだのは七瀬はるかであった。学生鞄を両手で持ち、自然な仕草が女性らしい。大人びた外見で『お嬢様』らしい彼女だが、学校の教室とは何故だか比率が取れているのが不思議である。やはり彼女にも、どこか高校生らしい幼さが含まれているのだろう。
「今日のミーティングなんですけど、少し遅刻すると桐島さんに伝えてくれませんか?」
 眉間にしわを寄せ、はるかが申し訳なさそうにそう言う。
「あぁ、いいけどよ。どうしたんだ?」
「学年主任の秋月先生に呼び出されちゃって」
「なんだよ、素行が悪いからか」
 酒井の軽口に、はるかはもう、と口を尖らせて微笑する。
「違いますよ。進路の相談です」
 ふうん、と酒井が興味なさそうに返事をする。はるかははるかで中々大変なようだ。そんなことを考えているうち、酒井は何か妙な感覚を覚えた。まるで、何処とも分からない場所へ一人で放り込まれたような居心地の悪さ。酒井はポケットに手を入れ、さっと回りに目線を流した。
 はるかは、そんな酒井の行動に気づきもしない。
「じゃあ、よろしくお願いしますね、酒井さん」
 そう言うが早いかはるかは小走りで教室から飛び出していった。はるかの後姿を少しの間見つめてから、酒井は再び視線を教室に移す。なにやら級友の何人かが自分たちの様子を窺っていたようである。今教室にいる生徒の数は十人程度だろうか。それぞれが三四人程度に固まり、酒井の方をちらちらと見ながら小声で話をしている。酒井は、ひどく苛立ちを感じた。一体何を噂してやがるんだ。所々、単語のように飛び交う語句が、酒井の苛立ちを助長させる。
 「やっぱりあの子」「わかりやすよね」「酒井くんはどう思って」「本物なのかな」「うふふ、珍しいね」
 酒井は、嫌な勘繰りをしてしまう自分自身にさらに苛立った。元女子高であるこの恋恋高校。大人しく女性らしい七瀬はるかと、勝気で男勝りな早川あおい。二人は親友と称していつも一緒にいる。女子高。女子生徒。女子高女子高女子高。
 ――下衆なやつらめ。
 ちっと小さく舌打ちをして、自分の正面にいた女子生徒を睨みつける。女子生徒は一瞬ひるんだような素振りを見せて、逃げるように視線をそらせた。酒井はそれを見逃さなかった。ポケットに両手を入れたまま、大またで詰め寄り、狼狽する彼女を無視して右足のつま先を相手の膝の隣にある壁に蹴りつけた。がん、と大きな音が教室中に響き、酒井に対する不振な目線はさらに強くなっていった。
「おい、てめえ、さっきから何話してやがんだ」
 酒井が右手を女子生徒の顔の隣に強く打ちつけてそう言う。二人の顔の距離は鼻と鼻がつきそうなほどに近づいている。女子生徒は、もうすでに目じりに涙を浮かべていた。口をぱくぱくと開きながらアワアワと言葉にならない声を発している。そんな彼女を見て、酒井は再び苛立ちを覚えた。
「はーるー……あれっ?」
 素っ頓狂な声がD組中に響き渡った。酒井はもちろん、その声の主を一瞬で判別することが出来ていた。この声が聞こえるたび、かつて若き日の自分がどうしようもないほど昂揚したものなのだから。
 早川あおいは左手をドア枠にかけながら、きょろきょろとクラスの中を見渡していた。恐らく、七瀬はるかを探しにきたのだろう。酒井はちっと小さく舌打ちして女子生徒から目線を外すと、あおいに向かって手を挙げてみせた。あおいは酒井を見つけると、小首を傾げながら小走りに寄ってきた。その間に、女子生徒はそそくさと酒井から逃げるように離れていった。
「酒井くん、はるか見なかった?」
「七瀬ならさっき出て行ったぜ。なんか用事があってミーティングには遅れるとよ」
「ええっ、そうなの?」
「あぁ。それにしても早川、お前」
 酒井はそういってあおいを足元からじろりと見つめた。あおいはお下げ髪を振りながら「うん?」と答えてみせる。
「いつも七瀬と一緒なんだな」
「うん。だって、はるかはボクの親友だから」
「親友、ね」
 自分では恥ずかしくて、とても言えそうもない言葉だ。そもそも酒井には親友と呼べるほどの友人がいない。なにせエスカレータ式のあかつき中学から突如乗り込んだ身だ。かつての友人は皆あかつき高校に進学していった。
 自分から遠のいた、些か子どもっぽいその言葉。それが何故かこの二人にはよく似合っている。
「でもな、ガキじゃねえんだからよ。ずっと一緒ってのも不気味だぜ」
 あおいがきっと酒井を睨んだ。160センチにも満たない小さな少女の精一杯の威圧である。何気なく酒井が言ったその言葉が、あおいにはひどく不快に感じられたらしい。
「そんなこと――酒井くんには関係ないじゃないっ」
 あおいが目の前にあった窓枠に向かって思い切り手を叩きつける。ばん、という大きな音がクラス中に響き渡り、級友の何人かが何事かとこちらに奇異の眼差しを向け始めた。酒井は――驚いた。が、それよりも何故か腹の底からゆっくり昇ってくる奇妙な感覚が彼を盲目にさせる。
 それは恐らく、『懐疑』だったのではないだろうか。
「しらねえよ、そりゃあ関係ねえさ。ただ傍から見たらそういう風に見えるんだから仕方ねえだろうが」
 心なしか酒井の口調も喧嘩腰になってしまう。短い金髪に鋭い瞳。幾分か周りを威圧する、不良のような外見の酒井であるが、あおいは一歩も引かなかった。ただ真っ直ぐに酒井を見据えている。
「ボクは――ボク達は、ずっと一緒だったんだ。それが当たり前なんだもの」
「いったろ。ガキじゃねえんだからって」
「それはいけないことなの? そんなに“不気味”?」
 あおいが激昂すればするほど酒井は自分の気分が落ち着いていくのを感じた。目の前で怒りに震えるあおいを見て、憐憫を感じるほどになっていた。
 きっと、あおいは自分でも理解っていたのだ。
 女子高校生の二人。元女子高である学校に所属している二人の女子が四六時中一緒に行動を共にするということが、周りにどう思われるか――そんなことに考えを巡らせていくうちに、酒井の気分は益々悪くなってきた。先ほどの感情とは違う、生理的な嫌悪感。下衆な考えが頭を過ぎる。
 当然、あおいが「そう」でないことはわかっている。同性愛を否定するつもりはさらさらない。だが、あおいがそんな可能性を感じ、悩んでいることがひどく可哀想に思えた。
 あおいは、はるかのことが心から大好きであるがゆえに、距離を置こうとも思えないのだ。それが、(元、とはいえ)女子高という一種閉塞的な空間であるがゆえに生まれる被差別の憂き目に遭うことになろうとも。今、あおいの瞳に映っているのは、向かい合っているのは、きっと酒井ではなかった。

 それは――自分自身なのだろう。

 酒井が言った言葉は、かつてあおいが自問自答したことなのだ。それを他者の口から発せられたがゆえに、あおいは異常に反応を示した。それが正論だからこそ、間違っていなかったからこそなのだ。なんと――不憫なことなのだろうか。
 酒井は、ぎゅっと頬に力を入れてから――彼女にとって、かつての自分が恋焦がれた彼女にとってもっとも残酷に聞こえる言葉を選んで言った。
「あぁ、不気味だね。お前達、レズなんじゃねえの?」
 空気が、変わる。彼女を纏った全てが変化し、教室のざわめきが一層大きくなる。その中から聞こえるのは、巫山戯たことに同調の声であった。
 てめえらに、なにが理解るってんだ――!
 酒井が級友を怒鳴りつけるその前に、あおいの平手打ちが酒井の頬を襲っていた。ぱん、という甲高い音の後に熱を伴った痛みがやってくる。首の筋も痛めたようだ。予想はしていたが、あおいの平手打ちは普通の女子生徒よりも遥かに強い。
「勝手なこと……言わないでよッ!」
 喉から搾り出したような喚き声でそう叫ぶと、あおいは振り返って教室を飛び出して行った。最後まで涙を見せなかったのは、やはり彼女の強さなのだった。
 あおいのことを思ってのこととは言え、やはり厭な気分になるものだ。まださんざめく教室がそれに同調してより一層苛々が募る。酒井は周りを見回した。周りを囲う級友がいまだ、自分の方向を見ているのを認めると、ふっと口元で笑ってから――

「見せモンじゃねえぞ! コラぁ!!」

 

 

 弾みとはいえあおいに向かって暴言を吐いてしまったことは少なからず酒井の精神に不調をきたしていた。いくら彼女を思っての言葉だったとはいえ、結果的にはあおいを傷つけてしまったことには変わりない。高校生にもなると小中学のように、唯何も考えずだれかれ構わず交友を広げればいいというものではなくなるのだ。友人との付き合い方というものも自然と変わってゆくし、変えなければいけない時もやってくる。周りの目。メリット。デメリット。そんな打算計算が圧し掛かる。嫌な言い方だが、それは大人になってゆくということなのだろう。言うべきだったか、それとも言葉にせず収めるべきだったのか。いまだ答えは見つからない。
 そもそも今日も午後からミーティングとはいえ部活動があるのだから必然顔は合わせる羽目になる。
「どのツラ下げて行きゃいいんだよ」
 酒井は自然と独り言を言っていた。生徒会室へと向かう足取りもいくらか重くなってゆく。酒井はある意味で茨の道を好んで進んだということなのだろう。決して頭が悪いわけではない。ただ、酒井はあおいやはるかに対して可なりの愛情があっただけだ。一人の友人として、それがお節介だとしても言わずにはいられなかった。彼女達が嘲笑の的にされるのだけは真っ平御免であった。ただ、それだけだったのだ。
 桐島からのメールをもう一度確認してみる。ミーティングが行われる二階の生徒会室には一度も行ったことがなかったのだが、それでもなんとか辿り着けた。時間は12時27分。約束の時間までには間一髪間に合ったというところか。
 生徒会室のドアを開くと、そこには見慣れた顔がいくつも並んでいた。ほとんどの人間が長机に座っており、手前の教壇に立っているのは桐島だ。桐島は黒板にもたれかかるようにして入り口を見ていたようだったが、酒井が入ってきたのを確認すると笑顔を作って「やあ」と短く言った。
「おれで最後みてえだな」
 そう言いながら酒井は周りを見回した。長机に座っている都川、足立、朝倉、韮沢、はるか、そして……早川あおい。あおいは酒井の方を見ると、気まずそうに目を伏せた。そんなあおいの態度を見て、酒井は妙に居心地が悪くなるのを感じる。てっきり怒っているものとばかり思っていたのだが、どうもそればかりではないようだ。頭のあたりを掻きながら、酒井は空いている椅子にどっかりと座り込む。隣の席には足立がいて、何を言うでもなくただにこりと笑っていた。酒井は足立のこういうところは好きだった。これが都川だとまたわけのわからない話をどんどんと吹っかけてくるところだ。
「さて、酒井が来たところで話をはじめたいと思うんだけど」
 桐島の言葉に、野球同好会メンバー一同はそれぞれ同調の素振りを見せた。
「メールでも言ったことだけど、今のオレたちに必要なのは、部員だ。だから新入生を我が恋恋高校野球同好会に勧誘しようと思っているんだけど、この元女子高である恋恋高校に何人の男子生徒が入学してるかが問題なんだな」
 桐島がそう言うと、まわりの何人かが頷く素振りを見せた。
「そこで今日、足立が一ついいものを用意してくれた。――足立、さっき言ってたヤツ」
 うん、と返事したあと足立が立ち上がり、教壇に向かって静かに歩き出した。片手には何か紙の束を持っている。足立はその束を桐島に渡すと、教壇に両肘をついて周りを見回した。
「えー、足立が持ってきてくれたコレ。これは、今年の新入生の名簿なんだな」
 おお、と周りから声が上がる。
「おいおい、なに無茶なことしてんだよ」
 そう言ったのは都川であった。しかし、足立は去年もまったく同じことをしているのだ。足立はいやあ、と曖昧に笑ったまま誤魔化している。
「ま、いいんじゃねえかな。んで、この名簿に因ると今年入学した男子生徒は三人。今の同好会メンバーがピッチャーが二人で合計七人だから、こりゃあもうギリギリだ。意地でも全員勧誘しなきゃならねえ」
 桐島はそう言いながら名簿の束を一番手前に座っていた朝倉に手渡した。
「とりあえずその三人の名前には蛍光ペンで印を引いてあるから、またそれぞれ覚えておいてくれ。後々勧誘するときに役に立つだろうからな」
 名簿がバケツリレーの要領で次々と渡される。酒井は隣の席が空白だったため、椅子から立ち上がってその向こう側にいたあおいから受け取った。そのとき、あおいが伏し目がちだったことを見逃さない。
 変なとこで確執が生まれちまったかな――そんなことを考えながら、酒井は名簿に軽く目を落とす。その瞬間、酒井はアッと声を出してしまっていた。
「ン? どうしたんだ、酒井」
 桐島が言う。
 これは――どういうことだ? 酒井は名簿を何度も何度も見返した。そして、自分のみ間違いでないことを再び確認し、混乱は加速してゆく。名簿に記された三人の名前。

葛城 真哉(かつらぎ しんや)
後藤 春一(ごとう しゅんいち)
須川 辰巳(すがわ たつみ)

 この三名は――いずれも、あかつき中学での後輩であった。

 

 

「これは一体、どういうつもりなのですか」
 足立真吾は、誰もいなくなった生徒会室で一人、そう呟いた。その言葉がきっかけとなったようにドアが開く。先ほどのミーティングからずっと気配は感じていた。ゆっくり、ゆっくりと操る糸繰り人形の動きを観察するかのような目線を感じていた。足立は、誰よりも自由を愛する男だ。束縛されることを嫌う男だ。それが今や、あらかじめ確定されている未来へ導かれているような感覚を覚えている。足立は敵意をむき出しにした目線を送るが――加藤理香は、そんなことには気にも留めていない様子である。そんな理香の態度に、足立は机を思い切り力をこめて叩いた。
「どういうことかと聞いているんですッ」
「少しは落ち着きなさい、足立くん」
 理香は片手を教壇につき、刺すような目線で足立を見た。
「これは、私の仕業じゃないわ」
「あなたの仕業じゃない? ふん、この恋恋高校という高校野球ではまるで無名の学校に、彼らのような逸材がこうも都合よく一同に介するかのように入学しますか?」
 中学野球は好きであった。“和久井”という超一級の選手がいたからという理由もあるのだろうか。足立は中学野球の試合を多く見てきた。その中で目を引いたのはやはり、新潟の一文字・陽崎バッテリーと、総合力では群を抜いて優秀だったあかつき中学である。
 当時のあかつき中学の試合を見ると、守備では酒井が誰の目にも明らかなほど優れていた。彼はバッティングも決して不得意ではない。三割近い打率は誇っていたし、本塁打数も少なくはない。それでも、彼は四番を討てないでいた。
 当時四番をつとめていた男。それが、二年生の須藤なのである。
 さらに、後藤と葛城の二人はやはり二年生にも関わらずそれぞれスターティングメンバー入りを果たし、センターとライトを守っており、ひどく観客の目をひいたものだ。そんな三人が――何故恋恋高校などに入学する?
「確かにあの三人が入学したのには私も驚いているのよ。いいこと? 足立くん。彼らをここに引き付けたのは私じゃない――酒井くんよ」
「酒井くん?」
 理香の意外な返答に思わず鸚鵡返しをする。理香はふうとため息をつくと目を瞑る。長いまつげが瞼の上をうっすらと覆い、ぽってりとした唇が強調される。
「小田切くんは覚えているわね?」
「キャプテンでしょう。バッティングに特化した、典型的なバッター気質の男だ」
 小田切勇は選手としては一流であった。酒井や、ともすれば須藤をも上回るバッティング技術を持ちながら、五番をつとめていた。四は縁起がわりいじゃねえか、とそんな戯けたことを言っていた記憶がある。
「彼は――選手としては申し分なかったけど、人望に欠けたようね」
「人望……そんなものに惹かれて、彼らは」
「バカに出来ないものよ、意外と」
 理香はそう言ったきり、おしのように黙り込んだ。理香の言葉が足立の胸をひどくえぐる。
 和久井――。
 和久井は、人望があったのだろうか。

わかっている。足立は誰よりもわかっていた。

 

……うるせェよ

 

 和久井には人望がある。それゆえに様々な人が傷ついた。

 

……影山、さん

 

 痛む。

 

……おれの、おれの腕が

 

 消えない過去。消えない幻影。

 

……おれは、おれは一体

 

 津波にように押し寄せる過去の映像が足立の時間を止める。
 自分は傍観者。
 いや――諦観者・・・、か。
 そんなことを思い、しばらく意識は浮遊した。くつくつ、くつくつ、嗤い声が聴こえる。――麻美? いや、これは。
「面白くなってきたわね」
 そう言った理香は、なんとも形容しがたい笑みを浮かべていた。喜んでいるのか、愉しんでいるのか、それすらわからない。ただ、彼女は目いっぱいの笑みを、得体の知れない笑みを浮かべ、声を上げるほど嗤っていた。それが足立にはひどく癇に障った。
「なにが、面白いものですか」
「面白いわよ。いい逸材に恵まれたわね、足立くん」
「煩い」
「でも、困ったわねェ。そうでしょう?」
「煩い」
「こんなに沢山の素晴らしい選手が集まって、果たしてあなたの願望は享受されるのかしらねぇ?」
「やめてくれえッ!!」
 ふっと意識が飛ぶ。真っ白な世界が眼前に広がる。そうして、足立は不意に自我を失っていった。自分が、自分を纏うものすべてが白いナニモノかに包まれて、やがて足立真吾は消えてゆく。
「野球部設立確定、かしらね。うふふふふ。心配はいらないわ。部活動の顧問には私がなってあげるから。ねえ? アダチ君?」
 ――首の力が失われ、机に頭をぶつけたその瞬間、足立は理香の美しい声を聞いた気がした。

 

 

 

 

 

>>#14.公式戦(仮)


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