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不協和音に聴こえた日
Pawapuro11 Short Story

 

 このドアの向こうに手を伸ばすことが出来たらどれだけいいかわからない。
 ぼくと彼女の間に引かれた絶対的な境界線。
 やっぱりぼくは教え子で、彼女は指導者。それだけの関係。色気も何もあったものじゃない。

 ドアの向こうから聞こえる彼女の声は、やっぱりぼくを高揚させる。
 けれど、その内容はぼくが知るところではない。
 考えれば考えるほど、ぼくの気持ちは暗い底に沈んでいく気がする。
 どうしてぼくは、こんな意味のないことをしているんだろうか。

 ドアを背にしながら、ぼくは泣いていた。

 

 

不協和音に聴こえた日

 

 

 高校を良くも悪くない成績で卒業したぼくは、そのまま特にこれといった目標もなくただ漠然と大学へと進学した。電子物理科学科というやっぱり興味もない学部に所属し、毎日貫く信念もなくただ時間が過ぎるのをぼんやりと待っている。
 パワフル高校にいたころは野球部に入部していた。一応甲子園を目指していたのだけれど、近所に強豪校があったため、ぼくが卒業する頃までその夢は叶うことはなかった。諸先輩方や後輩達に申し訳ないとも思いながら、それでもぼくは「ああ、やっぱりな」という思いを抱いていた。そんなぼくは、どうしようもないほどの卑怯者だった。周りの部員と溶け込むことでぼくは自分を保っていた。甲子園に対する情熱なんて、ぼくにはなかった。野球部に入部したことも、ただ長い人生の暇つぶし程度に考えていたのかもしれない。
 大学に進学してもぼくのその厄介な考え方は変わらなかった。ただなんとなく野球部に入部し、周りの人間に嫌われないような態度を模索し、笑顔で接している。部活動の最中も上達するために心血を注いでいるふりをしている……はずだった。
 いつの頃からかぼくは野球に真剣に取り組むようになっていた。自分でも似合わない、居心地が悪い、と思う。しかしそれは仕方のないことだ。
 監督を騙すことなんて、到底無理なのだから。
「乾くん」
 と呼ばれ、ぼくは振り向いた。ぼくの目線の先には野球部の監督である早川あおいの姿があった。
「フォームが乱れてるよ。ボクが見てあげるから、ちょっとこっちに来てくれる?」
 早川あおい監督は元プロ野球選手だった。二ヶ月ほど前に引退し、そのままぼくの大学、パワフル大学の野球部の監督に就任した。
 あおい監督は温和な人だ。誰かを怒鳴ったりしている姿なんて見たこともない。いつもにこにこ笑っているし、注意をするときでさえその笑顔は崩れない。誰だったか、あおい監督にセクハラまがいの質問をしたときだって、彼女は顔を真っ赤にして注意をするだけで、“怒っている”という風ではなかった。
 そんなあおい監督に、ぼくはどうしようもなく惹かれていた。
 艶やかな長い髪。身長は低めだけれど、引き締まった体系。そしてなにより、あの可愛らしい笑顔が、ぼくは好きだった。
 彼女を騙すことが出来なくて、彼女に嫌われることを避けたくて、ぼくは野球を続けていた。

 

 

「あおい監督は素敵でやんすねえ」
 とこれはぼくの友人であるところの矢部明雄氏の発言だ。矢部くんはいつも牛乳瓶の底みたいなグルグル渦巻きの眼鏡をかけており、語尾に変な言葉をつける。いわゆるオタク系の風貌なのだけれど、それでも野球の腕前はそれなりだ。足だって速いし、身体能力ならぼくより高いかもしれない。
「そうだね」
「うん? なんだか納得してないような反応でやんすね」
「そんなことはないさ。うん。あおい監督は魅力的だよ」
「でやんすよねえ。オイラ、ブラウン管越しにいつもあおい監督に見惚れていたでやんす!」
 矢部くんが『見惚れていた』のは果たしてあおい監督の放った投球なのか、それとも彼女自身なのかはぼくには掴めなかった。けれど後者なら、これはある意味ひどい。あおい監督に知られたら1000本ノックのお仕置きが待っている。
「そういえば、あおい監督って恋人とかいるのかな?」
「さあ。よくわからないでやんすが……あ、そうだ」
「ん?」
「確かあおい監督は一度だけ高校時代の級友と噂になってたでやんすよ」
「へえ、そうだっけ」
 恥ずかしながら、ぼくはついこの間までプロ野球選手である早川あおいを殆ど知らなかった。一応、ぼくも高校球児だったのだからある程度の情報は入ってきてはいたけれど、そこまで興味はなかったのだ。そのため“あおい監督の高校時代の級友”といわれても、ぼくには想像も出来ない。何よりあおい監督が高校生のとき、ぼくは小学生か中学生だ。彼女の出身校を聞かれたところでぼくには到底答えることは出来なかった。
「でもそれは確か否定していた気もするでやんす」
「なんだ、いらない情報じゃないか」
「ひどいでやんすよ。乾くんの問いかけに少しは意味があると思って言ったのに」
 そう言いながら、ぼくらは部室の前でお互いを小突きあった。これからグローブなんかの道具を置いて、着替えて、そして家路に着く。家に帰ったら何をしようかな……ぼくはそんなことを思っていた。

 ――え? うん、そうそう。

 部室の奥で聞きなれた声がして、ぼくは思わず握っていたノブから手を離した。

 ――あははー。そんなことがあったんだー。

 パワフル大学の野球部には女性が二人いる。一人はマネージャーの小田谷加奈女史。そしてもう一人は……言わずもがな、あおい監督。部室の奥から聞こえる声は、紛れもなくあおい監督のそれであった。
「あおい監督がいるみたいでやんすね」
「うん。入っていいのかな」
「いいんじゃないでやんすか? 別に着替えをしているわけでもないでやんす」
 矢部君の声に後押しされ、ぼくはもう一度ノブを握る。

 ――もうー、ひどいよ。アキヒコくん。

 一瞬、ぼくの思考は止まった。後ろで矢部くんが何かを言っていたけれど、ぼくの耳には入らなかった。
 あおい監督は今、なんといった? 『アキヒコくん』……そう確かに聞こえた。
 昭彦、章彦、明彦、彰彦――いろんな漢字が頭を流れ、そして消えていった。そのどれもがぼくにとって馴染みのない名前で、ぼくは混乱した。
 彼女は、何故そんな名前を出した? ――電話の相手が『アキヒコ』なる男だったから――当然だ。
 長い時間が流れたように思える。それは数十秒にも数分にも数十分にも思えた。けれど実際は三秒にも満たない短い時間だったのだろう。ふと、後ろの矢部くんが口を利いた。
「どうしたんでやんすか? 乾くん」
 ようやく彼の声が聞こえた。ぼくはドアノブを握ったまま「ああ」と生返事を返す。
「いや、名前がさ。あおい監督、今アキヒコって」
「アキヒコ? どこかで聞いた名前でやんすね」
「えっ、そうなのかい」
「ああ。思い出したでやんす」
 ぽん、と矢部くんが手を叩き、そしてその後不審そうにぼくの顔を覗き込んだ。
「巨人の一文字選手の名前が明彦でやんすよ。あおい監督と同期の選手だったから、きっと相手は一文字選手でやんすね。というか乾くん、一文字選手を知らないんでやんすか?」
 後半は聞こえなかった。ただぼくの頭にぼんやりと浮かんだのは、読売ジャイアンツの先発投手である一文字明彦の綺麗な顔であった。

 

「ねえ、矢部くん」

 乾いた喉から必死に搾り出した。情けないほど頼りのない声。

「グラウンドにボールを一つ忘れてきてしまった」

 ぼくは口からでまかせを言う。

「悪いけど、取ってきてくれないかな」

 いい加減で、自分勝手な発言。矢部くんは相変わらずぼくを疑うような視線を見せていたが、そのうちグラウンドへと走ってくれた。きっと、ぼくの尋常じゃない態度を慮(おもんぱか)ってくれてのことなのだろう。
 ぼくはくるりと背を向け、ドアに向かってゆっくりもたれかかった。

 ――そうだね、今日は21時くらいになるかな。

 あおい監督の嬉しそうな声がぼくの耳をどうしようもなく痛めつける。まるで大きな針がゆっくり耳の中を侵入していくような感触。ぼくは思わず両手で耳をふさぐ。

 ――バイクの後ろ――わかった――

 そんな単語がぼくの頭に入ってきた。それと同時に何かが思い出される。あれはいつの頃だったか。ぼくが部室の掃除をしていたときのこと。

「あれ、なんだろうこれ」
 ぼくが拾い上げたもの。それは、バイクのヘルメットだった。グレーのフルフェイスヘルメットで、有名メーカーのものだった。新品で購入したなら恐らく三万円から四万円……これは、以前雑誌で読んだ知識だった。
「あ、ごめんね乾くん」
 そう言いながらヘルメットをひょいと取り上げたのは、あおい監督だった。
「どうしたんですか、それ? あおい監督、バイク乗りましたっけ」
「ボクは乗らないけどね」
 えへへ、と笑うあおい監督。その時の彼女の笑みから感じ取れたものは、『照れ』だったように思う。無意識で身勝手な考えが、ぼくの目を曇らせた。――ああ、きっとバイク用品が好きなんだな――似合わないから、照れたんだ――そんなことを思っていたように思う。
 あるはずもない。そんなこと。
 そんな当たり前のことに気づかないくらい、ぼくの頭は呆けていたのだ。

 ――今日は帰れるの? ……うん、わかった。それじゃあ食事作っておくね。

 もう、どうでもいい。ぼくはいつの間にか脱力して、へたりと座り込んでいた。

 ――うん……えへへ。大好きだよ、明彦くん。

 決定的な一言がぼくの脳裏に突き刺さる。
 そうだ。ぼくと彼女の関係は部員と監督。それ以上でもそれ以下でもなかった。なのに勝手にぼくが盛り上がって、それで空回っていただけ。
 ぱた、ぱた、と水滴の落ちる音がする。ぼくの両目からは止めようもなく涙が零れ落ちていた。涙は瞳から一直線に落ちてゆき、ぼくの頬を伝ってあごの辺りで一旦止まる。その後ゆっくり一粒ずつフローリングの床へと落ちていった。ぼくは顔をあげることも出来ず、声をあげることも出来ない。

 薄いドア一枚が、ぼくと彼女の邪魔をする。
 このドアがなければあの人に手が届くのに。
 ――いや、それはやっぱりぼくの自分勝手な妄想だった。
 大理石の壁。ぼくはそんな絵を頭の中で描いていた。破りようもなければ登れもしない。ぼくは壁の向こうがどうなっているかなんてわからない。

 壁の向こうにはきっと、ぼくの知らないような別世界が広がっているのだろう。

 見たことのない動物が跳ね、見たことのない植物が生え、見たこともない人間がいるに違いない。頭の先から足の先まで真っ黒な、ぐにゃぐにゃとした人間が。その世界はぼくと係わりはしない。だからぼくもそんな世界に興味は持たなければよかったんだ。

 たたたたたっ、という足音が聞こえてきた。ああ、矢部くんが帰ってきたんだなとなんとなく理解できたけれど、ぼくは動くことが出来なかった。涙も止まらない。腹の底から沸きあがる悪寒と怖気は、今もなおぼくの心臓を傷つける。


 少し、穴が開いていただけだった。


 大理石の壁に、小さな穴が。どうにかして向こうを覗くことが出来るだけの小さな穴。

 その穴を覗いてしまったことをぼくは、例えようもなく悔いていた。

 



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