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空色鉛筆
Pawapuro13 Short Story

 

 ふ、ふ、と規則的に息を吐きながら、橘みずきは走っていた。最早日課になりつつあるランニングはいつもと同じコースを辿っている。この長い斜張橋を渡りきれば終着点はすぐそこだ。高校に入学してからほぼ毎日のように同じコースを走っていたが、年月が経つとに共に段々と伸びている。そういえば最初と比べてずいぶん回り道をしているなあと、そんなことを考えていたとき、みずきはふと足を止めた。
 橋の下は土手になっており、橋を渡っているとずいぶん向こうまで見渡せる。時折近隣の住民がバーベキューかなにかをしているのを見かけることはあったが、今日は珍しいものを見つけた。
 ベニヤ板で出来た画板の上に紙を置き、すらすらと色鉛筆のようなものを走らせる。年のころは自分と同じか、少し上だろうか。紺の綿パンに白いTシャツという飾り気のない服装と短い髪の毛が幼さを醸し出している。男は土手から見える風景を見ながらぼんやりとした表情で模写をしているようだったが、その風景にみずきはいたく興味をそそられた。急いで橋を渡りきり階段を下りる。みずきの姿も男の視界に入っただろうに、彼はなんの反応も示さなかった。面白くない、と思ったみずきは急いで男の傍まで走ってゆき、ぐいと顔を近づけてスケッチを覗き込んだ。
「おにーさん、何書いてるの?」
 すると男は色鉛筆を持った手を止め、みずきの顔をちらりと見た。
「ここから見える風景」
「ふうん。上手く描けてるじゃない。絵描きさん?」
「絵描きさんの定義は良くわからないけど、これで稼いでいる人ではないな」
「学生?」
「さあ。君は?」
「あたしは学生。高校三年生よ」
「ああ、そう」
「なによ、自分から聞いたくせに」
「中学生くらいに見えるな」
「失礼ね!」
 みずきが腰に両手を当てると、男はははは、と人懐っこい表情を浮かべて笑う。最初に見たときはずいぶん無愛想だと思ったが、本来の性格はそうでもないようだ。
「君、名前は?」
「人にものを尋ねるときは自分から言うものよ」
「僕は乾。乾真人(いぬい まさと)」
「あたしはみずき。ねえ、おにーさん、よかったらあたしの似顔絵とか描いてよ」
「それは無理だな」
「なんで?」
「僕は人物画は苦手なんだ」
 そう言と乾は画板を仕舞い、すっくと立ち上がった。座っていたときはわからなかったが、かなり背が高い。180センチは超えているだろう。身長150センチにも満たないみずきは無意識に身構えてしまう。
「どうしたの?」
「帰るんだよ」
「えー? どうして?」
「用事が済んだからだけど」
「ダメ! もう一枚くらい描きなさい!」
「ずいぶん上から目線だな」
「絵描きさんにあったのなんてはじめてだからね。ちょっと興奮してるのかも」
「絵に興味があるの?」
 乾は尻を両手ではたき、腰を曲げる。それでもみずきと視線の高さは合わなかった。
「あまり今まで興味を持ったことなかったけど、結構いいものかもね」
「完成品でよければ家に帰ればいくつかあるから、持ってこようか」
「本当?!」
 思いのほかみずきの反応がよかったからか、乾は上機嫌にうなづいた。
「ああ。ちょっと待っててくれるか。家はすぐそこだからそれほど時間はかからないはずだよ」
「んー。でもただ待ってるってのも退屈だし、あたしも行くわ」
 みずきがそう言うと、乾は目を丸くして驚いた。その後居心地が悪そうに体を揺らせ、右手で頭をかいてみせる。
「え? それはまずいんじゃないかな」
「なんでよ」
「僕、一人暮らしだよ。危ないじゃないか」
「大丈夫。あたし声の大きさには自信があるから」
 乾はみずきの返答の意味がつかめなかったのか、ぽかんとした表情を浮かべていた。そんな乾を見て、みずきは挑戦的に笑ってみせる。
「おにーさんにヘンなことされそうになったら『火事だーっ!』って町中に響き渡るほど叫んでやるから」

 

 

 みずきが予想していたとおりの場所に乾は住んでいた。
 広さは八畳程度だろうか。一間しかなく、男の一人暮らしに相応しい間取りである。だが、一足踏み込んでみずきは違和感を覚えた。部屋の隅にテレビが置いてある以外に目立つものはなく、異常なほど殺風景だ。部屋の真ん中には小さなテーブルが置いてあり、その上に筆や紙がちらばっている。ワードローブなどは見当たらない。洋服は三段ボックスの中に申し訳程度に収まっているくらいだった。
「こんなのしかないけど」
 といって乾は缶コーヒーを差し出した。自分もプルトップを開けて一口飲むと、部屋の周りをうろうろと歩き始めた。テレビの横には小棚があり、そこに大きなクリアファイルが幾つも収まっている。乾はそこから一冊取り出すと、それをみずきに向けて渡した。
「全部風景画だからつまんないかもしれないね」
 乾はみずきの向かいに座り、彼女の反応を窺っていた。みずきはクリアファイルを捲りながら時折「へえ」とか「ほお」とか感嘆の息を漏らしている。
 クリアファイルに収まっているのは、乾が言ったとおりすべて風景画であった。広場のようなものから花畑など。一体彼は絵を描くためにどこまで遠征しているのか、みずきは少しだけ興味を持った。
「これ、どこの絵?」
「H市の公園だね」
「これは?」
「S市でバラ園がやっていたときのもの」
「じゃこれは?」
「近所の川」
 二人は目を合わせることもなくクリアファイルに視線を送り続けている。やがてみずきの質問が途絶えた頃、乾は部屋に敷きっぱなしだったソファベッドに向かい横になった。
 しばらく無言の時間が続き、乾がうとうととしはじめたころ、ふと彼は違和感を覚えた。先ほどまでは定期的にぱらぱらとクリアファイルを捲る音が聞こえていたのに、ここしばらく聞こえていない。乾はみずきの方へと顔を曲げる。すると彼女はクリアファイルを持ったまま、視線を一箇所に向けていた。乾がみずきの視線を追うと、そこには一冊のスケッチブックがあった。
 いけない。出しっぱなしだったんだ。
 乾は慌ててそれを拾おうとしたが、それは適わなかった。乾が体を跳ね起こす仕草を見せた途端、みずきは口元にいたずらっぽい笑みを浮かべてスケッチブックに手を伸ばした。距離が近い分みずきに分があった。
「それは駄目だよ」
 そう言ったが、みずきは嬉しそうに笑みを浮かべたままそのスケッチブックを捲ってしまった。
 途端、みずきの表情が一気に曇っていく。
 乾は諦めにも似たため息を彼女に気づかれないよう小さく吐いた。
「これ……」
 乾はもう、観念しきっていた。
「――早川あおい選手?」

 

 

 早川あおいとは、元プロ野球選手の名前である。千葉ロッテマリーンズに入団し、キャットハンズに移籍したのちに三年と経たず引退してしまった。理由は体力の衰えによる成績不振ともう一つ。――同期の選手との結婚であった。
 あおいが世の中に残した功績は輝かしいものがある。当時は初の女性プロ野球選手ということで持て囃され、客寄せパンダとして扱われることもしばしばあった。しかしあおいはそんな逆境に負けることなく立ち向かい続け、今では全国の野球を志す少女への応援をし続けている。近年、パワフル野球アカデミーというプロ野球選手になるための専門学校が出来た。野球アカデミーは女性の入学も認めている。そのことも、あおいの力があってのことだった。
 なので、みずきにとってあおいは恩人ともいえる。今自分が野球に携わることが出来るのもあおいの作った道があったからだろう。それでも、みずきはあおいを心底尊敬出来ないでいた。自分勝手な理由であったのであおいへの苦手意識は同時に自己嫌悪にも繋がる。みずきは、あおいを苦手としていたのだ。

 

「嘘つき」
「何がさ」
「人物画は描けないっていったくせに」
「描けないなんて言ってないさ。苦手だとは言ったけど」
「綺麗に描けてるじゃない」
 そう言ったとき、みずきは思わず目から涙がこぼれそうになった。
 本当に、本当にこの絵は綺麗に描けている。そのことがみずきはとても悲しかった。
「うん。まあそうなんだけど」
「何よ」
「僕はね、人物画っていうのが怖いんだ」
「怖い?」
「うん。綺麗な風景や静物は心を和ませる効果があると思う。けれど、綺麗な人物画っていうのは上手く描ければ描けるほど、対象となった人物に生命が宿ったようになる。僕はそのことがすごく怖いんだ。まるで、自分の知らない間に動き出しそうでさ」
 そう言ったあと、乾は眉間にしわを寄せ、曖昧に笑う。
「自分の絵に魂が込められているっていうのも言いにくいけどね。言葉通り、自画自賛みたいだ」
「でもあなたはこうして人物画を描いているじゃない」
「好きなんだよ」
「え?」
 乾はふっと口元に笑みを浮かべて、もう一度笑って見せた。その笑みが、みずきには何処か悲しそうにも思えた。
「彼女が好きなんだ。心から好きになった人の絵なら、描けるんだよ」

 

 

「どうしたの? みずきちゃん。ずいぶん不機嫌そうだね」
 思わずグーパンチを見舞うところであった。
 得体と理由も知れない殺気を彼が気づいたかどうかは定かではないが、とにかく小波十三(こなみ じゅうぞう)は「ひいっ」と叫んでみずきから離れていった。
 そもそも何故自分がこれほどまで苛立たなければならないのだ。それもこれもみんなあの乾とかいう男のせいだ。
 好きになった人の絵なら描けるんだ? それを言われた途端、みずきは自分の女としてのプライドががらがらと音を立てて崩れていくのを感じていた。何もあんな女性(ひと)の絵を描かなくてもいいじゃないか。あの女性を知っていたのなら、わたしのことも知っていたはずなのに、どうして彼はわたしではなく彼女を選んだんだ。
 たった一日の出会いなのに、みずきはどうしようもなく乾に惹かれていた。大柄な体躯とは不釣合いな小型犬のように可愛らしい笑顔も、平日の夕方に土手で絵を描いているという不思議な生活観も。みずきの心を捉えていた。
 悔しかった。彼女に負けたことが。
 それでも、よくよく考えれば当然だ。自分はまだ十八で、乾から見ればまだ子どもである。だから――いや、そんなことはない。乾の年齢はわからないが、二十台前半から中ごろであろう。まさか三十台に乗ってはいまい。自分との差なんてほんの五年か六年くらいのはずだ。ならば全然不釣合いなことはない。そうだ、そうに決まっている。
「何がそうに決まっているの?」
「わっ」
 みずきは体を跳ねさせ、驚いた。どうやら独り言を口に出してしまったようだ。みずきに声をかけた張本人は廊下側の窓から顔を覗かせ、柔らかく笑っていた。
「もう、脅かさないでよお姉ちゃん」
「一人でおっきな声出してる方が怖いと思うけど?」
 彼女はみずきの姉の聖名子であった。今はここ聖タチバナ学園に教育実習生として通っている。聖名子は薄い黄色のセーターに地味なデニムパンツ。右手に名簿のようなものを持ち、格好は嫌になるほどの『教育実習生』であったが、幼い顔つきのせいでその風体が逆にアンバランスであった。
「ねえ、みずき。最近小波くんと上手くいっている?」
「なあに、どうしたの急に」
「なんだか最近おじいさまが貴方と小波くんの仲を疑ってるみたいでね……」
 聖名子は廻りに気遣ってか、先ほどより小声で続けた。
 今みずきはとある理由で小波と恋人同士の振りをしている。しかし実質付き合っているわけではないので時々ぼろが出そうになる。昨日の部活動においてそれは顕著に出てしまった。
「うーん、そっか」
「まあ、何か新しい手を考えておいてもいいかもね」
「恋人の証みたいなのを見せればいいんだけど」
 みずきはそう言いながら学生鞄をごそごそとまさぐった。
 すると、そこに一つのペンダントを見つけた。
 三日月をかたどった、安物のペンダント。
「それ……」
「え、ああ。こんなのもあったのね」
 まずいところを見られた、と思った。小波本人ならいざ知らず、聖名子にだけは見られたくなかったのに。
「いいじゃない。それを渡せば、おじいさまも納得すると思うわよ」
 聖名子はすべてお見通しだといわんばかりの表情でみずきに言う。しかしその口調からからかいなどの悪意は見て取れない。相変わらず、お人よし過ぎる人だ。
 そのとき、みずきの頭に一つの妙案が浮かんだ。
「うん、そだね。じゃあ、これを渡すことにしよっと」
 みずきは人知れず笑みを浮かべた。彼女の癖のような、いたずらっぽい表情。

 

 

 インタホンを押すということがこれほど難しいと思ったことはなかった。
 頭の中で何度もシミュレートしたはずなのに、いざその場に立たされると体が竦む。一体彼はどういう反応を見せるだろうか。そのことを考えるだけでみずきの心臓は信じられないほど早く動いてしまう。大きく深呼吸をして、なんとか気を落ち着かせようとした。みずきは右手の人差し指にぐっと力を込める。自分の心に力を込めたのと、同時に。
 インタホンを押して五秒と立たずにドアは開いた。「はーい」というけだるそうな声を聞くのは実に三日ぶりである。みずきにとって長い長い三日間だった。
「あれ、みずきちゃんじゃないか」
「久しぶりだね、おにーさん」
「どうしたの? 何か用事かい」
 乾はパジャマ姿のままだった。一体彼はなんの仕事をしているのだろうか。
 みずきは乾に促されるまま彼の部屋へと足を踏み入れた。三日前と何一つ変わっていない。
「あのね、よかったら絵を一枚くれないかなと思って」
「え、なんだいそれ」
「あ、無料(タダ)が嫌ならお金払うよ」
「別にそういうことはいいんだけどさ」
 といいながら乾は右手の中指でこめかみの辺りを触ってみせる。どうやらこれは彼の癖のようだ。
「何か気に入ったのでもあったの?」
「うん。この間はなんかいいそびれちゃったから」
「ふうん。でも君に見せたのはどれだったっけな」
 のそのそと歩き出す乾を見て、みずきはさっと手を伸ばした。クリアファイルを手にとって、ぱらぱらと眺める。
「あ、これだこれだ」
 そう言ってみずきが指差したのは、バラ園を描いた風景画であった。
「みずきちゃん、バラが好きなのかい?」
「そういうわけでもないけど、なんか気に入っちゃって。ねえおにーさん、これ私にくれない?」
「ああ、別にいいけど、なんだか恥ずかしいな」
「やったー」
 みずきは嬉しそうに紙をクリアファイルから抜くと、それを大事そうに自分のファイルへと仕舞った。ファイルを鞄に仕舞い終わると、みずきはそこから一つ取り出した。
 三日月のペンダントである。
 みずきはそれを掴むと、一瞬手が止まった。何故なのかはわからない。しかし強引に振り切り、ペンダントを乾の方へ向けて差し出した。
「貰いっぱなしっていうのも気が引けるから、これあげるよ」
 乾はそのペンダントに目を落とし、ふっ、と息を漏らして笑う。
「なんだい? それ」
「見てわかんない? ペンダント」
「それはわかるけど、なんで僕に?」
「だからお礼だって」
「違うよ。なんで君が僕に永遠の愛の証を贈るのか聞いているのさ」
 みずきは、思わず体が硬直してしまった。
 ――どうして?
 ――ただの安物のペンダントなのに。
 ――なんで知っているの?
「僕が高校生の頃、近所の百貨店に行ったことがあるんだ」
 そう言うと、乾は立ち上がった。体をぷるぷると震わせて、みずきを見下ろす。その瞳は優しく、決して威圧的ではなかった。
「どう見てもまがい物のペンダントが売っててね、面白くて思わず笑っちゃったよ。それで、そのペンダントの謳い文句が『永遠の愛の証に』だったから余計にね」
「知らないよ。私、そんなこと」
「普通のお礼なら、安っぽすぎるんだよ。そもそもお礼にペンダントってのは無理があったね」
 悔しかった。
 また乾に子ども扱いされていることが、みずきにとって何より悔しかった。
 どうして? どうして乾は自分を女性として見てくれない?
 嫌。
 あの女性と比べられるのだけは、もう嫌。
「ねえ」
「なんだい?」
「私、知ってたのよ」
「なにが?」
「あの絵、早川選手じゃないでしょ」
 今度は、乾が固まる番であった。
「あの絵の女性は、橘聖名子だった」
 みずきが出した名前に、乾はあからさまに動揺してみせた。
 ――そう。確かにあの絵はあおいではなく、聖名子であった。
 二人を知らない人であれば、見分けが付かないとも言われた似ている二人。
 みずきでなければ見分けはつかなかったことだろう。そしてそれほど似ている二人を描き分けた乾は、相当な画力があるのだろう。
「ちょっと待ってくれ」
「おにーさん」
「……」
「私の苗字、言ってなかったよね」
「……ああ」
「私、橘みずきって言うの」
「……」
「あの女性の、妹よ」
 そう言ったと同時に、みずきの目から涙が零れた。以前は我慢出来たのに、限界だった。
 心から好きになった人でなければ、描けない。
 そう言った乾の言葉はきっと本物だったのだろうと思う。みずきが一番知っている聖名子の愛情。それがあの絵からは溢れんばかりに包まれていた。きっと乾は、教育実習生でった聖名子を何処かで見かけたのだろう。
 みずきのランニングコースは学園の周りを一周する。学園の近くには大きな橋がある。初めて乾と出会った、あの斜張橋。そこからすぐ近くにある乾のアパート……予想は簡単についた。
「悔しいなあ。お姉ちゃんをあんなに綺麗に描かれるの」
「みずきちゃん」
「何よ」
「僕は君が聖名子さんの妹だってことは知ってたよ」
「嘘」
「本当さ。学校の帰りに二人でよく歩いてたろ。顔つきも似ているし、ああ、妹なんだろうなってことくらいだけど」
「バカ」
「そうだね。きっと見抜かれるとは思った」
「女の子が泣いてるのよ」
「ああ、うん」
「ちょっとは慰めたらどうなのよ」
「世間の倫理観は難しくてね」
 乾はそっとみずきの手を握る。大きくて、優しい感触。
「僕にとって、やっぱり君は妹みたいな存在だな」
「言うと思った。結局私の一人相撲だったのね」
「大丈夫さ。君が僕に抱いていた想いは薄れていく」
「勝手なことばかり」
「君が僕に抱いていた感情は恋じゃなくて、やっぱり憧れなんだと思う」
 永遠の愛を誓うはずのペンダント。それは握った手の中にまだ収まっていた。
「だからこれは、君が本当に好きになった人にあげるべきだ」

 

 

「ちょっと、小波君」
「なに?」
「これ、あげる。プロになれるかもしれないご利益があるらしいよ多分」
「アバウトなご利益だなあ」
「いいじゃん。ともかく大事にしてね」
「うん。わかったよ。けどなんかこれ、ムダにきらきらしてて安っぽくない?」
「うるさいなあ、いいから仕舞っときなさい!」
「わわわ、わかったよ」

 

 これでよかったのだろう。消える小波の後姿が、なんとなく彼を思い出させる。気持ちの整理はしばらくつきそうにないけれど、吹っ切れないわけではなさそうだ。みずきはぐっと拳に力を込めた。
   私は、そんなに弱い女じゃないもの。

 

 

 このアパートを借りてもう何年になるだろうか。駅から近いことと家賃が格安であったことだけで決めた。どうせそのうち収入が安定すれば引っ越すだろうと思っていたけれど、今となっては他の場所に移り住もうなどとは思えなくなっていた。
 初めて聖名子を見たときの気持ちは今でも覚えている。あれほど他人に心を惹かれたことなど今まであっただろうかと思うくらいだ。聖名子を見かけのはほんの二、三度だった。けれど、乾は彼女の顔を鮮明に思い出すことが出来る。彼女の絵は何枚描いたのだろうか。二十枚か三十枚か。もしかしたら五十枚ほどは描いたかもしれない。今だって何も見ずに彼女の顔を描ける自信はあった。けれど、どうしても鉛筆を持つ手が進まない。
 乾は薄緑色の色鉛筆を置くと、ふう、とため息を吐いた。
 ――やっぱり、駄目か。
 乾は描きかけだった聖名子の絵を破ると、丸めてゴミ箱へと放り投げた。代わりに一枚紙を新しく貼り付け。さらさらと下書きをする。あっという間に輪郭が出来上がり、髪型だって詳細に描くことが出来た。そういえば彼女はいつも髪の毛を結んでいた。一度下ろしたものも見てみたい。そんな風に思うのはあまりに勝手だな、と思って乾は一人自嘲した。
 あれから彼女が自分の部屋を訪れることはなくなった。高校を卒業したりすれば、それこそ一生会わないのかもしれない。今思えば彼女と会話したことがまるで白昼夢のようにも思える。
 そうして、人とは出会い、また離れていくものなのだろう。乾はそんなことを思いながら、下書きだけの絵をしばらく眺めていた。
 やっぱり、か。
 何かを確かめるように呟き、乾は黒の色鉛筆を置いた。ここまで来たら色も塗ってやらなければ可哀想だ。いや、そうではない。自分が描きたいのだろう。どうしてでも描きあげたい。自分は画家として大成しないのはこの面倒な性格のせいなのだろう。自分の描きたいものしか描かず、描きたくないものには何があろうと決して描こうとしない。
 画板に載せられた紙を見つめる。屈託のない表情で笑う彼女は、まさしく乾の知る彼女そのものであった。まずは、髪の毛から塗ってあげよう。彼女の幼さを、魅力を増大させているであろうその髪の毛を。

 

 乾は“彼女”に命を吹き込むために一本の色鉛筆に手を伸ばした。
 その色鉛筆の色はもちろん、決まっていた。

 



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