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さよならの切っ掛け
Pawapuro15 Short Story

 

 神楽坂グループ野球部の練習設備の充実っぷりときたら、まるで異常だ。

 練習機材は国内最高級といっても過言ではない物ばかり揃えているし、整備も行き届いて故障したりすることは一切ない。更には『特別ルーム』と称した謎の施設には様々な機材・インストラクターが常備されており、他にはない一風変わった練習も行える。

 この間、『彼』が軽い口調で話していたことによると“すぺしゃるひーりんぐ”だとか“すぺしゃるもちべーしょん”だとか、なんとも如何わしい名前の特訓を行っているようだが、その効果の程は定かではない。もっとも、『彼』は大変に気に入っている様子だったので、それほど無駄なことは行っていないのだろう、と信じたい。なにより今日もこうして特別練習を行えるのも、やはりまた神楽坂グループの練習設備が整っている故のことだろう。

 私、六道聖はここのところ神楽坂グループ野球部に属する一人の男と自主練習をする運びとなっていた。私がキャットハンズを退団したのは、三年前のことである。その瞬間から私は野球を忘れ、ここ神楽坂グループの一社員として身体を粉にして勤労する運命となった。神楽坂グループの経理として働くようになってから、私の頭はふわふわと移り気であった。まるで浅い夢を見ているような感覚が続いている。自分が生きているのか死んでいるのかもわからない。そんな中出会ったのが『彼』、乾真人だった。

 乾は神楽坂グループ野球部入部するやいなや、破竹のスピードで昇級していった。彼を初めて見たのは彼が入部してから二年目の六月にあった試合だった。乾は140キロを超える速球と、キレの良いスライダーと落差のあるスクリューを武器に、対戦相手であったロケット急便の選手から合計十五を超える三振を奪っていた。その彼を見た瞬間、私の中で何かが爆ぜた。

 今のままでも大した選手だというのに、彼には幾つも弱点がある。それを克服すれば、きっと飛躍的に実力をあげてしまうことだろう。わかりやすく例えるとすれば、彼はダイヤの原石だったのだ。それも、磨く必要も無いほど洗練された宝石だ。彼を一目見た瞬間から、私はすっかり興奮してしまった。だが、何より強く心に残ったのはそのあとのこと。私は自宅に帰り、再び乾のことを考えていた。その時、私は突然閃き、そして納得してしまった。何故、私はこれほどまでに彼のことを考えてしまうのか。その気持ちを、私は知っていたのだ。乾真人を見たときに感じたあの例えようもない幸福感。

 

それは、橘みずきをはじめて見た時と、同じ感覚だったのだ。

 

 

 シャワールームから出てきた私の目に飛び込んできたのは、熟睡してしまっている乾真人の姿だった。汗だくのユニフォーム姿のまま、ブルペンの床に寝転がっている。規則的に膨らむ腹部と、それに呼応するように吐き出される静かな寝息。私は乾の隣に腰を下ろし、彼の寝顔をじっと覗き込んでいた。

 彼の変化球は本物だった。特訓に付き合えば付き合うほどそれは確信へと変わって行った。あの時見たスライダーも、スクリューも、既に完成されていたといっても過言ではないほどの代物であった。にも関わらず、乾は私と特訓するようになってから私が予測したとおり大幅な投球技術の向上を見せてくれた。

 自分が先ほど乾に向かって放った発言が思い出される。私は、乾の肉刺だらけの左手をそっと触った。

 

「お前なら出来るかもしれない」
「ええっと……それって、橘選手のウイニングボールだよね? ぼくに出来るかなあ」
「大丈夫。それに、お前はみずきとよく似た投球術だ」
「そうなのかな」
「そう。みずきの球を受け続けていた私が言うんだから間違いない」
「え? 聖ちゃんって橘選手と知り合いなの?」
「あ、えっと……そ、そうだ」
「へえ。それは初耳だな。うん、いいことを聞いた」
「いいこと?」

 

 うん、と答えて乾は私に向かって微笑んだ。その無垢なようにも見える瞳の奥に何かが見える。その時はいまひとつわからなかったけれど、今なら少しはわかる。

 それはきっと、嫉妬だったのだと思う。

 乾真人は気づいたのだろう。私が、世界中の野球選手の中でも橘みずきにもっとも心酔していることに。乾はそれが我慢ならなかった。六道聖の中を、乾真人でいっぱいにしたい。そんな想いが見え見えだったのだ。

 乾は、冷静を装いながら、はっきりとした口調でこう続けた。

 

「教えてもらいたくなったよ。“クレッセントムーン”」

 

 

今思えば、橘みずきは天才だったのだと思う。神童裕二郎。猪狩守。そして早川あおい。数々の“名選手”と呼ばれた先人を鑑みても、やはり私は橘みずきから一番センスを感じていた。そもそも高校時代では並のキャッチャーでは捕球不可能とまで言われた変化球を投げていた彼女が、怪物でないわけがない。そんな彼女の決め球ともいえるものを教えるのは、些か無謀であったのではないだろうか。そう思わなかったわけでもない。それでも、見たかったのだ。

彼の成長。そして、彼女のウイニングボールをもう一度。

 

 

「おはよう、乾くん」
「あれ? 寝ちゃってた?」
「うむ。あまりに幸せそうな寝顔だったから起こすのも忍びなくてな」
「ありゃ、ごめんね、聖ちゃん。さすがに疲れちゃってさ」
「それはまあ、な。何時間投げ込みを続けていたと思ってるんだ」
「でもそれに見合うだけのことはあったさ。いやー、びっくりしたなあ。なんかこう、『ククッ!』て音が聞こえたような気がするもんね」
「そんなわけないだろう」
「まあそうなんだけどね。それでもやっぱり橘選手は凄かったんだなあ」
「そうだな。でも私はその名投手の決め球を体得した乾くんも、十分凄いと思うぞ」
「て、照れるな」
「胸を張れ。お前はもっといい選手になる。私が保障するぞ」
「うん、ありがとう。聖ちゃん」

そう言うと、乾は落ちていた帽子をさかさまに被り、私に向かって微笑んだ。私の指導のもと、彼が放った変化球は紛れもなく橘みずきの得意とした最高の決め球であった。みずきの武器をたった一日で会得した乾に嫉妬の念を抱かなかったわけでもない。彼の清々しい、そして凛とした横顔を眺めながら、私はなんともいえない感情を抑えきれないでいた。彼の眩しい笑顔が、彼の真っ直ぐな思いが、私をどうしようもないほど打ちのめす。

「私は、負けたんだろうな」

 乾の後姿を見ながら、私は一人そう零していた。彼に気づかれないように、そっと。
 きっと、きっとこういうときに言うんだろうな。

 さようなら。

 ……という言葉は。

 



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