君の声を待つ夜
Pawapoke1 Short Story

 

 景色が白く染まっている。自分が何を考えているのかもわからない。自身で何かを考えるだけの知性はもはや私から失われてしまったのかもしれない。脳裏に浮かぶのはこれから後、確実に訪れるであろう自分の破滅と、生涯最も愛したアイツの顔だった。
「さあ、気が変わったか? 九十六号」
 男はそう言って拳の骨をぱきり、と鳴らした。そこには革製で砂の詰まったサップグローブがはめられており、それは私の血でべっとりと赤く濡れていた。
「もう一度聞く。ダイジョーブ博士は何処だ?」
 私はにぃ、と唇を曲げてみせた。その時、唇の端が切れて鈍い痛みが走る。
「知らないわ」
 答えたと同時に私の視界が黒に支配された。それと同時に地面が消える。唐突な浮遊感を覚えながら私は背中側の壁へと飛ばされた。顎の下へと正確に入った男の蹴りは、私の骨を綺麗に割った。
「何故そうまでして庇うんだ?」
「庇う? そんな、つも、りはない、わ」
「馬鹿な女だ」
 男はこき、と首を曲げる。冷徹な瞳が私の心臓を貫いた。
「希望を抱いて死にたいか」
「希、望?」
「お前はこんな状況でもまだ助かると思い込んでいるのだな」
 ふ、と視線を落とした男を見ていたら、ふたたび私の身体に激痛が走った。今度は腹だった。男の丸太のような脚が私のみぞおち深くに蹴り込まれる。胃の内容物が逆流する感覚と、焼けた鉄を飲み込んだような感触がした。

 

 希望を抱いて死ぬ。その言葉を聞いたとき、私ははじめて自分の本心に気づいた。どんなに痛めつけられても、どんなに絶望的な状況でも、私は決して諦めていなかった。今に思えば不思議なものだ。元々私はそれほど楽観的な方でもないし、もしかしたらずいぶんとネガティブな人間なのかもしれない。そんな私が今こうして良い方向へと物事を考え出すようになったのはある意味とても可笑しいことだ。
 私は、彼を信じていた。
 大した事じゃない。それに彼は今、大切な仕事の真っ最中だ。なにせ、幼い頃からの夢を今この瞬間に叶えているのだから。きっと彼は私の事なんて思いもしないはず。例え今の私のことを何処からか知ったとしても、恐らく状況は変わらない。彼が助けに来るなんて思えない。そんなムシの良い話、存在するはずがないのだから。
 それでも私は彼を信じていた。
 彼なら、私が愛した彼ならきっと私を助けてくれる。きっと私を救ってくれる。そう信じてやまなかった。
 プロペラ団の牢に幽閉されたあの日から、幾度彼の幻を見たことか。あの私の大好きな笑顔を携えて立っている彼の幻を。けれどそれは夢幻。今私が見るべきものは、現実。私にとってひどく絶望的な現実だ。

 

 今度は頬の肉が殺ぎ落とされた。ラバーナイフで擦っただけ、とても命を奪うに値しないほどの小さな傷。しかし、それが私に与えたダメージは甚大だった。露出した頬の内部には風が当たるだけでも身をよじるほどの痛みが伴う。そしてそこに張り手が飛んだ。私は無意識に悲鳴をあげていた。
「ぎゃあ!」
 恥も外聞もなく転げ、悶える私を男はサディスティックな瞳で見下ろしている。そう。私は知っている。この男の拷問が耐えがたいほどの苦痛である事が。
 前蹴りが飛んできた。私の鼻の骨がぐしゃりと潰れる感触がした。鼻の骨が顔面内部にめり込み、息をする事すら困難になる。喉の奥が血で濡れて、私の口からごぼりと零れる。鮮血は鉄製の床にぼたりと落ちて、雨上がりの水溜りのように広がっていった。
「痛えだろ? 痛えよなあ。もうこんな思いすんのぁ嫌だろうが」
 男はゆっくりと私との間合いを詰めだした。前のめりに倒れこんだ私に対してまるで幼児の相手をする時のように優しくしゃがみ込んだ。
「なあ。もういいだろ。とっとと吐いちまえよ。そうすりゃ楽にしてやるからよ」
 返事をしようとしたが、声が出ない。私は上体を起こしながら口腔内を少し痙攣させることしか出来なかった。
「上等上等」
 男は口笛を吹き、立ち上がる。ナイフを太腿に取り付けたベルトに仕舞いこむと、ゆっくりと伸びをした。その後、私の背骨に強烈な踵落としがめり込んだ。
「かはぁっ」
 私は身体をそらし、まるでしゃちほこのような格好を強いられた。一瞬男と目が合ったが、男は瞳で軽く笑ってみせた。それから後、鋼鉄が埋め込まれた靴でこめかみを貫かれた。真横に回転しながら再び床へと倒れこむ。私の意識はまだ、残っていた。
「……して」
 私の口からなんとか声が漏れた。
「あ? なんだって? 聞こえねえよ」
「……してよ」
「なに?」
「――早く、殺してよぉ!」

 

 

 わかっていたことだ。彼が来ないことなんて。
 ドラマティックに想ったところでそうはいかない。
 人は、人をどれほど深く愛せるのだろうか。
 自分の命を預けてもいいほど、深く愛せるのだろうか。
 少なくとも、彼の愛は私に命を託すほどのものではなかった。
 そのことに気づいていた。気づいていたはずなのに。


 悲しい。


 鉛の銃弾が私の眉間を割るその瞬間まで、私は彼の愛を信じていた。

 

 貴方は褒めてくれるかしら? 莫迦な女だって。

 

 


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