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探偵・深町亮二の奔走
Pawapoke7 Short Story

 

 時間を食べる方法があれば、教えて欲しい。
 単純な事だが退屈である、ということは耐えがたい苦痛だった。深町亮二は埃っぽく汚れたソファにかけながら、今日十七本目の煙草に火をつけた。
 深町探偵事務所に依頼が無いのはいつものことなのだが、今回はいくらなんでも暇すぎる。なにせ以前の依頼をこなしてからもうすでに一ヶ月は経とうとしている。このままでは借金を返済する事はおろか、生活を続けていく事すら危そうだ。深町は焦燥を感じながらも、やはり楽観的にしている。
 あっという間に短くなった煙草を灰皿にもみ消すと、深町はん、と伸びをした。ずいぶんと身体がなまっている。
「深町君」
 後ろにいた湯田浩一が、そう深町に声をかけた。深町は首を半分ひねると、「うん?」と返事をする。
「退屈でやんすか?」
 そんなもの見れば分かることだ。深町は眉間に少し皺を寄せながら、なんとも形容しがたい笑みを浮かべて見せた。
「さすがにこうまで暇だとねえ」
「まぁ、気持ちはわからないでもないでやんす。けれど」
 といって湯田は深町の目の前に一枚の書類を渡した。そこには三百円の文字が認められていた。現在の貨幣価値に換算すると百五十万円という大金である。
「なんだい? これ」
「今日中に支払わないといけない請求書でやんす」
「えぇっ? 今日中に?! 一体なんの料金さ」
「深町君」
「なんだい?」
「オイラに黙って、何やったんでやんすか?」
「え?」
「なんでこんな高い武器を購入したか聞いているんでやんすっ!」
 どんっ、と湯田がテエブルを叩いて見せた。かなり興奮しているのか、湯田の顔が一気に赤く染まっていく。
「あっ、あれ? それ、事務所の方に来たんだ?」
「見に覚えがあるんでやんすね?」
 湯田の目がきらりと光る。深町はしまった、と口を手で抑え、わざとらしく笑って見せた。
「いやあ」
「結局前の事件(注釈『探偵・深町亮二の冒険〜魔女狩りの村を追え〜』のこと)は一文にもならなかったんでやんすよ? こんなことをしていたら借金を返すどころかますます泥沼でやんす」
「一発どーんっとでかいの当てればそれで済むんじゃないかな」
「それが出来ないから深町君はいまだに借金マミレなんでやんすっ!」
 大層な剣幕で詰め寄る湯田に反論しようと深町が口を開きかけた時、ふと玄関の方から音がした。どうやらノックの音のようだ。
「げ。借金取りかな。湯田君、今この家にお金いくらくらいある?」
「かき集めて三円くらいじゃないでやんすか?」
「三円……はあ。それで帰ってくれるとは思えないなあ」
 深町は立ち上がり、戸口に向かって歩き出した。なんと言い訳をしようか、と考えながらまた煙草を咥える。扉の前についたとき、またノックの音がした。深町は煙草を咥えたまま「はいはい」と面倒くさそうに返事をする。
「誰だい?」
 がちゃり、と音がして扉が開いた。そこから顔を出したのは深町が思い描いていたそれとは全く異なる人物だった。てっきり借金返済の催促かと思ったのだが、そうではないらしい。
「ご無沙汰しています、深町さん」
 深町探偵事務所にやってきたのは、堤篤弘(つつみ あつひろ)であった。

 

 

 

探偵・深町亮二の奔走

〜あの怪物を制圧せよ〜

 

 

 

 深町が堤篤弘と知り合ったのはつい最近のことである。相変わらず仕事もなく、何もしていないのも体裁が悪いので深町は何を思い立ったか帝都大学へと足を運んだのだ。大学では深町を知る者も多く、事情を話すとなんとも簡単に仕事をいくらかくれたのだ。仕事とはいっても深町の本業である探偵業・冒険の類ではなく、単純な書類整理等で特別深町でなければ出来ないものではなかった。とはいえ何もしていないよりは幾らかましだ。とにかく深町はこうして少しの間大学で賃仕事をして過ごしていた。そんな時であった。堤篤弘と出会ったのは。
 堤は帝都大学の学生なのだが、他の学生とはずいぶんと毛色が違う。深町は、堤の持つその知識量に惚れ込んだのだ。深町も世界中のありとあらゆる情報を把握している自信はある。そんな深町と話をしていても一向に遅れをとらないのだ。いや、遅れをとらないどころではない。堤の得意な科学分野にでもなると深町のほうがついていくのが精一杯になりそうなほどだった。ずいぶんと長い間、話の合う相手が出来なくて久しかった深町にとって堤との対話の時間は一種の娯楽のように感じていた。
「それで、今日はどういう用事だい?」
 深町は珈琲を入れ、堤の向かいに座り込んでそう言った。
「仕事の依頼ですよ。この間話しませんでした?」
 深町はえ、と目を丸くしてみせ、一瞬考え込む仕草を見せた。
「いや、覚えていないな」
「あ、そうでしたか。じゃあ改めて説明します。実はですね、私が在学している帝都大でおかしな事件が頻発しているんですよ」
「おかしな事件? どういうものだい?」
「ええ。深町さん、帝都から海を越えて西にずっといった所にある“天辺玖島(あまべく じま)”はご存知ですか?」
「あまべくじま? いや、知らないな」
「そうですか。大変自然の多い豊かな島なんですよ。最近そこに娯楽としてうちの生徒がよく向かっていたんです。どうも動物狩りが流行っていたらしくて」
「動物狩り? また幼稚だな」
 深町は短くなった煙草を口から放すと、シガレットケースから一本抜いた。それを咥えると、まだ火のついている短い煙草を咥えた煙草の先端に押し付け、火をつける。深町はふう、と煙を吐きながら短い煙草を灰皿に押しつぶした。
「そうですね。深町さんのような冒険家からしたら動物狩りなんて幼稚ですよね……あ、失礼。この表現はお嫌いでしたか」
「いや、構わないさ」
 そう答える深町だが、内心では些細な苛立ちを感じていた。
 なにも堤に悪気があったわけではない。ただ、自分が行動を省みず「冒険家」と呼ばれるのを一方的に嫌っているだけ。それだけである。
「それで話の続きだけど」
「はい。そこで、奇怪なことに怪我人が何人も続出したんです」
「怪我人?」
「はい。なんでも何か巨大な肉食獣にでも襲われたような怪我をした人が」
 深町の胸がどきりと鳴った。
「巨大な肉食獣……か」
「ええ。私が個人的に怪我人の傷跡を調べてみた所、襲った獣は半端な大きさでない事がわかりました。例えて言うなら……そうですね。まるで、古代の恐竜のようでした」
「恐竜並!? そりゃ凄いね」
「ええ。被害者にも聞いてみたかったんですが、口がきけるほど軽症だった者がいなかったもので」
「ふうん。その怪物を僕に退治して欲しい、と、そういうわけかな」
「はい。お願いします」
 深町は煙草をもみ消し、堤を見て不敵に笑った。
「報酬は?」
 堤はその深町の発言をまるで予測していたかのように笑みを返してみせる。
「深町さん、美術品に興味はおありでしたよね?」
「うん。それがどうかしたのかい」
 堤は後ろに立てかけていた一枚の画布(キャンバス)を深町のほうへと差し出した。しかし布がかけられており、中身は見えない。深町はその画布をじっと見つめていた。
「外していいかい? これ」
 深町の問いかけに、堤は勝ち誇ったような笑みを浮かべて答えた。
「どうぞ」
 深町が画布にかけられていた布を取り外した。その瞬間、深町の思考は停止してしまった。それほどの衝撃が、その絵にはあったのだ。
 その絵に描かれていたのは、一人の少女だった。白いドレスに身を包み、左を向いた横顔。物悲しくも見える表情の妖艶さがなんとも“少女”とは不釣合いなのだが、その中でも不思議な統一感が感じられる。
「“イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢の肖像”じゃないか!」
「さすが、深町さん。ご存知でしたか」
 “イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢の肖像”とは印象派でも高名なルノワールの作品の一つである。印象派といえば中でも風景画が良いと思われがちだが、ルノワールの描いた人物画はそれに負けずと劣らない魅力がある。深町自身、印象派ではルノワールが最も好きであった。
「深町さんほどの鑑定眼があれば言わずもがなだとは思いますが、一応、本物です」
「当り前さ。贋作にこれほどの重みは出せるもんか。堤くん、こんなものどこで手に入れたんだい?」
「すいません、経路については申せないんです。ただ、危ないことはしていないのでご安心を」
「……それならいいんだけどさ」
 深町がちら、と横目で油絵に目を落とす。まともに買えば恐らく数万円、もしくは十万円を超える可能性もあるほどの作品だ。何故これを堤が持っているのか、深町にとって甚だ疑問であった。
「気にいっていただけたのなら、深町さんにお渡ししますが……どうですか? 引き受けてくださいますか?」
 返事をするまでもない。深町はに、と唇をゆがめて見せた。

 

 

 夢のような報酬はもちろん魅力的だったが、堤から話を聞いたときからすでに深町はこの依頼を受ける事を決めていた。絶滅した恐竜ほどの戦闘能力を持った生物がこの世に存在するというだけで一目見る価値はある。例え赤字だったとしても、深町はなんとしてでも向かいたく思っていた。
 今日深町がここ新聞局にやってきたのは、“恐竜”の生態を調べるためであった。名前は知っているのだが、それがどういったものなのかを詳しくは理解していなかったのだ。深町は西洋袴の物入れ袋からシガレットケースを取り出すと、一本取り出して口にくわえた。
「新聞社は禁煙だぞ、深町」
 と、珠子は持っていた脇差の背中で深町の頭を小突きながら、そう促した。
 埼川珠子(さいかわ たまこ)は深町行きつけの新聞社で記者をしていた。まだ深町が駆け出しだった頃、よくこの新聞社へと事件のネタをもらいに来ていたのだ。しかしそのうち珠子は『自分の仕事が無くなるから』とだんだん深町に話を回してくれなくなった。当然のことだ。珠子だって自分の仕事を減らしてまで深町に事件を解決してもらいたいなんて思わないだろう。まだ名前を知られていなく、足代すらままならなかった当時の深町は少し悩み込んでしまった。新聞社は唯一といってもいいほどの仕事の仕入れ場所だ。このままでは自分の仕事はなくなってしまう。けれど、それは深町の意外な一言で解決を見せることとなった。
「じゃあ、タマちゃんが僕についてくればいいんじゃないかい?」……と。


「恐竜だって?」
 照れくさそうに煙草を仕舞った後、深町は珠子に堤の依頼の話をした。
「そう。古代の巨大動物、恐竜」
「それが今も生存していたというのか」
「さあ。ただ、少なくともそれくらい凶暴な生き物はいるらしいよ」
 珠子はふうん、と興味なさそうに呟いた。薄く化粧を施した横顔が、一瞬艶っぽい色を醸し出す。深町は不意に生まれた劣情を催しながらも冷静を装って話を続ける。
「どうだい? どきどきするだろう?」
 珠子は足元に落としていた目線を素早く上げて深町の目を見つめた。長い睫毛と不釣合いな幼い瞳。時折まるで壮年のように落ち着いた表情を見せる彼女の瞳が、深町は好きだった。
「またくだらん与太話に付き合わされて無駄足か?」
「与太話ってのは言い過ぎだよ。まだ出鱈目と決まったわけじゃないんだからさ」
「ククク……こんな話が出鱈目じゃないと?」
 くるりと身を翻して珠子が去ろうとする。その時に珠子の馬の尻尾のような後ろ髪がたなびき、ふわりと浮いた。
「待ちなよ、タマちゃん」
 深町は堪えきれず珠子の肩を掴む。珠子は左肩に乗った深町の手を右手で触り、顔を半分振り向けた。
「なんだ? お前は恐竜の生態を調べに来たんじゃないのか?」
「いや、それはさ」
「ここにはそれほどの資料は無い。百貨店にでも行って図鑑を見てくればどうだ」
「一緒に来ないかい? タマちゃん」
 珠子が身体を深町の方へと向き直り、正面から見つめてくる。それと同時に浅くため息のようなものをついた。
「私が獣が苦手なことは知っているだろう」
「恐竜は獣じゃない。爬虫類さ」
「相変わらず屁理屈が好きだな」
 と言いながら珠子は本棚の方へと目線を送る。手を伸ばしてそこから一冊の本を抜くと、ふう、と息を吹きかけ埃を飛ばした。珠子が取り出した本は専門書のようである。慣れた様子で本をめくるその様を、深町は何故かぼんやりと見つめていた。
「それ、なんだい?」
「ん」
 珠子が振り返り、深町にその専門書を差し出した。
「“恐竜図譜”。深町が探していたのはこれだろう」
「あぁ……。ありがとう」
 深町は恐竜図譜を受け取ったが、開く事はせずに表紙を見つめている。
「深町。恐竜というのは何時頃絶滅したんだ?」
「なんだ、知らないのかい?」
 おほん、とわざとらしい咳払いの後、深町が続ける。
「“恐竜”とは今から約二億年ほど前からあらわれはじめて、中生代に繁栄した生物類。いろんな種類がいるから大きさが種類によって大きく異なっている。小さいものは子犬程度だし、竜脚類と呼ばれるものは最大で体長三十メートルほどあったものもいる。肉食から草食まで多種多様。およそ六千五百万年前に絶滅したとされるがその詳しい概要は不明。隕石の衝突や火山の噴火による二つの説が有力視されている……と、こんな具合かな」
 ふうん、と興味なさそうに珠子が呟き、目線を床へと向ける。
「絶滅したのは六千五百万年前か。やっぱり与太話だな」
「考えかたの問題さ。もしそれが生きていたら大スクープだぜ」
 今日の深町は引く様子を見せない。何が何でも付き合ってもらうぞ、という目論見が目に見えている。この状態の深町には何を言っても無駄だ、ということを知ってか知らずか、珠子も押され気味になってきていた。
「わかった、わかった。それで? 出発は何時だ?」
「付き合ってくれるのかい? タマちゃん」
 深町の目が子どものように輝きだした。普段は涼しげによそおっているが、根底の部分は少年から成長していない。でなければ冒険などやっていないというものだった。
 そんな深町の態度を見て珠子は苦笑する。考えてみれば自分が深町の“冒険”に付き合おうと思ったのも、案外これが理由かもしれない。確かに深町が持ってくる特種記事は魅力だったが、それよりも彼と冒険することそのものがとても楽しかった。深町自身、相手がどれほど高い地位にいる人物でもまるで友人であるかのように平等に接する性格だし、さらに言えばどんな状況でも実の伴わない空々しい言葉を並べる事もしない。だから自分も楽に深町と付き合えた。湯田浩一が四六時中深町と共に行動しているのが苦にならないというのも頷ける。
「うむ。たまには無駄骨も折ってみたいからな」
「引っかかる言い方だなあ。ま、いいけどさ」
 深町は恐竜図譜を本棚へと収めると、新聞社を出ようと出入り口の方へと身体を向けた。
「明日、早朝五時に渡船で出発予定。遅れないでね」
 深町は扉の方向を向いていたので、その言葉に対する珠子の反応は、もちろんわからなかった。

 

 

 まだ寝ぼけ眼なまま乗り込んだのが悪かったのか、長い時間船に揺られ続け深町はひどく船酔いに悩まされてしまっていた。さすがに嘔吐まではいかないが、顔色がずいぶんと青白い。いつもなら仕事の前は気分が高揚していて些か饒舌にもなるのだが、ここ一時間ほどは一言も喋っていない。同乗している珠子は不思議なことに一向に酔っている様子はないようだった。腕組みをしながら船舶の右舷の壁にもたれかかっている。目を瞑っているので寝ているのかと思いそうだが、ときたま深町の様子を伺っているので、眠るつもりはないらしい。
 やがて島が見えてきた。あれが、天辺玖島か。
 見たところ島に変わった様子はない。緑も多いようだし、別段不審なところは見当たらない。ただ一つ気になることがあるとすれば、崖の多さだった。船で乗り付けられない、というほどではないが、少し歩けばもう断崖絶壁に当たる。つまり、坂道なのだ。そんな島の様子を見て珠子はすこし息をつく。
 おぼつかない足取りで船を下りた後、深町は急いで胸元から煙草を取り出した。一本咥えて火をつけると、さっさと煙を吐き出した。いつもに比べ、少しだけ不味そうに見えるのは気のせいだろうか。
「ずいぶん自然の多い島だね」
 なんとか吐き出したというような口調で深町が言った。珠子は大丈夫か、と問うたが、深町は心許ない微笑を浮かべるだけであった。輪胴拳銃を抜き、銃口部分を少し撫ぜてみた。さすがに今は刃物で武装する気にはなれなかった。今回の敵は強暴だ。なるべくなら最良の体調で臨みたい所であったが、そうするには少しばかり時間が必要だ。深町は短くなった煙草を地面に捨て、それを革靴で踏み潰した。気分は煙草を吸う前よりおそらく悪くなっている。が、それでも吸わずにはいられない。深町は早々に二本目の煙草に火をつけた。後ろで船舶の汽笛が聞こえる。どうやら天辺玖島から離れたようだ。迎えが来るのはちょうど一日後である。深町達は慎重に歩を進め始めた。――そのとき。
 深町達が立っている場所からおよそ三十メートルほど手前だろうか。風でゆらゆら揺れる木々の間に、深町は巨大な何かを認めた。
 赤みがかった黄色い体毛が太陽の光できらきらと光り、黒のまだらが威圧感をこちらに与えてくる。腹が空いているのか、しきりにぐるるる、と呻いていた。

 ――虎だ。

 深町はまだたっぷり残っていた煙草をぺ、と吐き捨てると、もう一度輪胴拳銃を取り出した。撃鉄を引き起こし、狙いを定めた。目前の虎の眉間を狙い、引き金を引こうとした――そのとき。
 虎、が疾走(はし)った。まっすぐ、こちらへ。
 深町は一瞬狼狽したが、慌てて引き金を引く。火薬の発火する音とともに弾丸が虎の眉間めがけて飛んでいった。その瞬間、虎は跳ねていた。弾丸は見事に避けられ、それと同時に深町と虎の距離が縮まる。もう眼前であった。深町はすばやく撃鉄を起こしながら右方向へと飛び跳ねる。虎が再び飛び上がり、深町に向かってその鋭い爪を振りかぶった。虎の爪が深町の目の前で止まった。深町は虎の前足を小太刀で受けていた。腰に挿していたのが幸いした。何時ぞやのときのように上着に隠し持っていれば今ごろ顔面が引き裂かれていただろう。深町は引き金に指がかかったままぶら下がっている輪胴拳銃を、すばやく回転させ再び虎へと狙いをつける。虎が前足をもう一度振りかぶったが、その瞬間には深町の射撃が虎の眉間を捉えていた。鉛の弾丸が虎の頭を割り、そこからどろりと赤黒い血が流れ出る。ふうん、虎は拳銃で撃っても血が吹き出ないんだな、と深町はそんなことを思っていた。
 力が抜けたように傾ぐ虎へ、深町は駄目押しの一撃を放つ。小太刀での一閃であった。深町に抜刀は虎の前足両方を足首から斬りおとしていた。その後、脳天へと小太刀を突き刺す。ずぶり、とまるで砂場に棒を挿すかのようにそれは綺麗に決まった。刃部分の半分ほどが虎の頭に突き刺さり、ようやく虎からすべての力が抜け落ちた。
 虎を見つけてから殺すまで、およそ七秒足らずの時間であったが、深町は全身から汗が噴出したような感覚であった。いけない、やはりまだ脳が半分ほど眠っている。今の虎との戦いにおいて、深町がとったすべての行動が普段より一瞬遅いのだ。戦闘はその一瞬が命取りになりかねない。深町は冷や汗まじりの汗をぬぐうと、ふと後ろを振り向いた。すると、そこには青白い顔をした珠子がいた。
「どうしたんだい? タマちゃん」
 珠子は深町はきっ、と睨むと、怒ったような口調で答えた。
「ケダモノは苦手だと言っただろう」
「目標は獣じゃないんだけどね」
「この島はケダモノの巣窟か? いきなり虎が現れるなんて」
「さあ。でもまあ、動物狩りなんてものが横行してるくらいだからね。多少の動物は生息しているさ」
「動物狩り?」
 しまった。深町は再び血の気の引く思いを感じていた。これは堤から聞いていた情報だが、珠子には伏せておいたのだった。何故か? 当然、嫌がられるからである。
「いや、それは、まぁ」
 しどろもどろになる深町につかつかと詰め寄り、次の瞬間には深町の襟をつかみぐい、と引き寄せていた。
「貴様はケダモノが生息していると知っておきながら私を誘ったのか」
「た、タマちゃんぐるじい……」
「まったく、いつもの事ながら調子のいいやつだな」
 珠子はそれだけ言うと襟から手を離し、とん、と深町を押す。深町の隠し事にかなり頭にきているようであったが、それでも珠子はそれ以上深町を責めなかった。こういった仕事をしている以上獣との対峙は避けられないことだし、なにより深町に対して怒る、ということがどうもやりにくい。深町は隠し事や人心掌握のために嘘出鱈目ぎりぎりの言葉で会話することもあるが、それでもどうしても怒ったりすることが出来ないのだ。それはやはり、深町が純真で、ある意味では非常に無垢な人間であるからであろう。そこに『誰かを騙す』といったいわゆる人間の悪さのようなものが見えないものだから怒りにくいのだろう。
 深町は相変わらずばつが悪そうに笑っている。珠子は日本刀を抜き、ふぅーとため息をついた。この様子では標的が現れるころにはへとへとになっていそうだな、と珠子は感じている。

 

 深町と珠子が猛獣と遭遇してからは、特にこれといった戦闘には巻き込まれずにいた。そりゃあ、途中で虎や、熊。狼に大蛇などを発見したのだが、深町が興味なしと見つからないように避けて通り過ぎていったのだ。この島にいる“主”は、少なくとも虎などではない。もっと巨大で、もっと凶暴な生物。それが、この島に存在しているはずだ。深町は木々の隙間にうごめく猛獣の影を感じながらも、やはりやり過ごそうと歩を進めた。
 そのとき。
 深町は何か妙な気配に気づいた。どちゃり、べちゃりという気色の悪い音が聞こえる。何か肉食動物が食事をしているのだろうか? 深町は少しだけ興味を引かれ、音のした方向へと向かった。木々の葉を割り、慎重に目線の先を追う。すると、そこにはにわかに信じがたい光景が広がっていた。
 なるほど。確かに肉食獣が食事している、というのはあっている。どうやら倒れているのは狼のようだ。かなり大きい。おそらく大人の狼であろう。体長はおよそ一メートルほどであったであろう。『ほどであった』といったのは、もはやその狼は原形をとどめていなかったからである。首は千切れており、そこには血とも肉ともつかない赤い塊が所々にこびり付いている。四本の足はすべて第一関節から先がなく、骨まで食されている。かろうじてその生前の様子が伺えるのは、胴体の大きさと、その足の長さであるが、もう半刻も経てばすべて食されきってしまうだろう。そしてその狼を食しているのは――熊であった。しかし、ただの熊ではない。本来の熊(たとえば、最大の大きさを誇るヒグマ)であれば体長は最大で三メートルほどである。体重は五百キロを超えるものもあるので、かなり巨大な生物ともいえる。しかし、深町の眼前に現れたこの獣は、そんな常識を覆すほどの大きさを誇っている。深町の目測ではあるが、全長は五メートルをゆうに超えている。頭だけでも餌の狼の胴体ほどはある。この熊は、異常だ。狼を捕食する熊など聞いたことがない。どういった生物なのだ、こいつは――。
「深町」
 後ろの珠子が声をかけてきた。ずいぶん小声だったのは、目前の巨大熊を警戒してか、それとも湧き上がる悪寒のためか。おそらく、両方であったのだろう。珠子の顔は青を通り越して灰色に近くなっていた。
「どうしたんだい、タマちゃん」
 深町もつられるように小声になって返事をした。
「あれが、堤の言っていた恐竜か?」
「うーん、どうだろうね。きっとそうじゃないかな。あんなでっかい熊は見たことがない」
「――爬虫類ではなくケモノだったな」
 う、とばつの悪そうに深町が言葉に詰まる。そんな深町を見て、珠子が自嘲気味に笑った。
「大丈夫、気にするな。苦手だからといって尻尾を巻いたりはしない。仕事だからな」
 そう言って珠子は腰に挿していた日本刀を抜いた。綺麗な刀身が真昼の太陽の光に映えて白く光っている。まだ“食事中”の熊がこちらに気づいた様子はない。
「深町。まずわたしがいこう」
「大丈夫かい?」
「さぁな」
 それだけ言って、珠子は巨大熊へと近づいた。傍目には何の策もなく歩いているように見えるが、実は違う。珠子がいくら近づいても巨大熊が気がつく様子がないのだ。珠子は、それは見事に気配を消していた。様子を伺っていた深町ですら、その気配を見失いそうなほどである。姿は見えるのだが、まるで幽鬼のように正体が掴めない。
 珠子と巨大熊との距離が、五メートルを切った。巨大熊はまだ珠子に気づかずに捕食を続けている。時折べりり、どぐちゃ、といった何かが潰れる、折れる、砕かれる音が耳を撫でていく。様子を伺っている深町でさえ顔をしかめそうな不快な音なのだから、すぐ傍にいる珠子はさらに気分を害しているはずである。しかし珠子は表情を曇らせることもなく、目線はただ一筋巨大熊に向かっていた。やがて日本刀が振り上げられ、巨大熊の大きな体に向かって吸い込まれるように振り下ろされた――。
 深町は、己の目を疑った。
 予想では珠子の刀が巨大熊を一刀両断にしたはずだった。しかし、深町の予見は思わぬ方向に裏切られることとなる。――消えたのだ。
 消えた。まさに言葉通り、巨大熊は深町と珠子の目前から煙のように消えうせたのだ。珠子が振り下ろした日本刀は巨大熊に命中することなく、足元の狼の死体(もはや残骸、だ)に刺さり、どつり、と鈍い音を立てた。珠子は仕留め損なった事に気づき、すばやく辺りを見回した。一体奴は何処へ行ったのだ? そんな珠子の思考は、背中を突然襲った衝撃でかき消されていった。
 体が“く”の字に曲がり、しゃちほこの様な体勢を強いられていた。珠子は巨大熊の強烈は張り手を喰らい、たっぷり三メートルは吹っ飛ばされた。人間が空を浮くさまを、深町は初めて間近で確認した。倒れこんだ珠子はすぐに起き上がれないでいた。しかし巨大熊はもう次の行動を起こしていた。四本足とは思えないほどの速度で珠子を追い、とどめを刺そうかとするように両方の前足を振り上げた。
 深町は何かを考えるよりも先に疾走(はし)っていた。小太刀か、輪胴拳銃か。深町は一瞬の躊躇いのあと、小太刀を抜いた。
 巨大熊は深町の気配に気づき、攻撃を止めた。その瞬間を深町は逃さなかった。深町の小太刀は巨大熊の首に向かって振るわれた。普通の熊であれば間違いなく首が飛んでいるであろう攻撃だ。さすがに一撃で殺せるとは思っていない。しかしそれでも致命の傷は避けられないであろう速度と間だったはずだ。
 深町の小太刀は、止められた。
 最高の刀が最適の速度と間で切りかかったというのに、野生の動物の身一つで止められたのだ。首に食い込んだ刀は一センチにも満たないほどである。巨大熊は一瞬身じろいだかのように見えたが、次の瞬間には反撃に移っていた。首に刺さった小太刀など意に介せず、前足を振るい深町を吹っ飛ばした。
「ぐうえっ!」
 深町は胸に穴が開いたかのような衝撃を感じ、珠子と同じくらいの距離を飛ばされた。そして、顔を上げたころには目前に巨大熊が迫っていたのだ。その巨大熊は、前足を天高く振り上げていた。きっとこの前足が振り下ろされでもすれば、絶命は免れない。この熊の戦闘力は、異常だ。
 巨大熊が雄たけびを上げながら前足を振るってきた。深町はすばやく転がりその一撃を避ける。巨大熊の攻撃は空を切り、その瞬間、後ろから珠子が巨大熊の背中を狙って日本刀を振るった。
 さすがに日本刀を耐えるだけの皮膚を持ち合わせてはいなかったのか、珠子が日本刀を振るった背中からどす黒い血が噴射した。巨大熊は叫び声とも雄たけびともつかぬ声を上げながら珠子のほうへと振り向いた。その瞬間を、深町は逃さなかった。上着から一本の糸をつかむと、それを巨大熊の首めがけて放り投げた。まるで西部開拓時代のカウ・ボーイのようである。深町の投げた糸は巨大熊の首を綺麗に締め付けた。深町は糸を両手でつかむと、それを思い切り引いた。
 巨大熊の首が、飛んだ。
 あれほど強固であった巨大熊なのに、深町の他愛もないような一撃で絶命したのだ。脳という指令を失った胴体は、ずうん、という大きな音を立てて地面に崩れ落ちた。深町は乱れた息を整えながら、珠子のほうへと歩み寄った。
「大丈夫かい、タマちゃん」
 珠子は頭を抑えながら、一呼吸おいて深町の問いに答えた。
「あぁ、なんとかな。しかし深町」
 珠子が深町の使用した武器を物珍しそうに覗き込む。深町はその動作をうれしそうに見ると、『なんだい?』と誇らしげに答えた。
「一体何なんだ、その武器は」
「金属線さ。金属で出来た糸。でも僕が使っているこれにはちょっとした仕掛けがしてあるんだ」
 そう言って、深町はその糸を軽く振るった。するとその糸には、何やらきらきらと小さく光る粒が見えていた。
「それは……」
「金剛石(ダイヤモンド)の粉をまぶしてある。刃物よりもよっぽど鋭いんだ。これにかかればこの世の中にはまぁ、切れないものはないだろうね」
 いたずらっぽく笑う深町を見て、珠子は苦笑いをする。さっきまで死闘を演じていた人間とは思えない。賞賛を得るためにはいくらでも労力をつぎ込み、努力する。まるで母親に好かれたいがために嫌いな勉学に励む子どものようだな、と珠子は思っていた。嬉しそうに、そして少しだけ誇らしげに笑う深町は、なんとも無邪気である。きっとこの男は冒険家などよりも、手品師などの方が向いていそうだな、と珠子は感じていた。
 一通り熱弁し終わった後、深町ははた、と黙り込んだ。そして静かに武器をしまい、帰り支度を済ませたかと思えば棒のように立ち尽くしている。一体どうしたのか、と珠子が手を差し伸べたのと同時に深町は歩き出した。その行く先は、巨大熊の死骸であった。深町は死骸を散々いじくり倒しながら、ふん、ふん、と息をついている。その異様なさまに圧倒されながら、珠子はじっと深町を見守っていた。
 やがて深町は珠子の方へと向きなおし、なんともばつの悪そうな表情で笑って見せた。眉を上げ、困っているような、可笑しいような、そんな表情で。その後深町は足元に転がっている巨大熊の頭部を拾うと、それを袋につめて肩に背負った。
「さあ、帰ろうか」

 

 

 帝都大学で依頼が完了した報告のため堤と合流したのは、ちょうど正午を過ぎたころであった。相変わらず実験室で何やらいかがわしい実験をしていたところに深町が声をかけたのだった。
 深町が袋を広げ、中に入っていた巨大熊の頭部を見せると、堤は一瞬たじろいだようだったが、すぐさま元の能面のような無表情へと変わっていった。
「流石ですね、深町さん」
 深町は煙草を加え火をつけると、天井に向かってふう、と煙を吐き出した。
「君の言っていた“怪物”ってのはやっぱりこいつのことだったんだね」
「はい。あまりにも巨大な熊。それの退治依頼です」
「やっぱりだ」
「え」
 深町は煙草を右手ではさみ、堤をじろりと睨んだ。その目には殺気にも似た力がこめられている。
「君は僕に話を通した段階で、怪物の正体についてはまったく話さなかった。なのにこうして退治した今では、その正体が巨大熊であったことは先刻承知のような態度だ。どういうことなんだい?」
 堤は深町の視線を受けながら、気おされないよう大きな声で返事をした。
「知らない方が面白がると思ったんですよ」
「違うね」
 深町が堤の言葉をはっきりと切り捨てた。
「少なくとも君は僕に嘘をついている。奴がヒトを殺傷したなんてことはなかったはずだ。僕はね、実はあの巨大熊の牙と爪を持ち帰って調べてみたんだ。するとどうしたことだろう。そこから人間の皮膚や血液は検出されなかった」
 そこまで聞いたところで、堤の顔色が少しだけ変わり始めた。こめかみの辺りに流れた汗を人差し指で拭き、深町の言葉の続きを待っている。
「さらに奴の体には妙な傷跡があった――そう、君が使用する武器、『科学発明品』にやられたのとそっくりな傷跡がね」
「何を言っているんです?」
 堤が深町の言葉をさえぎるかのように口を挟んだ。
「あなたが言いたいことが僕にはわかりかねますね」
「正直に言いたまえ」
 深町は短くなった煙草を実験用の流し台に放り投げた。
「言わなければ、この場で君を殺す」
 堤はふ、と口元に笑みを浮かべた。その笑みは余裕のようでもあり、追い詰められての誤魔化しのようにも見えた。
「真昼間から大学の敷地内で殺人ですか? そんなことをすればあなたは破滅です。聡明な深町さんならそんなことしませんよ」
「そう。ここまでしたんだ。君は僕に対して白を切り続けるだろう。これはもうちょっとやそっとじゃ翻らない。わかるかい? 賭けなんだよ、これは。僕は自信の破滅を賭けようじゃないか。君の答えを翻させるためにね。それくらいしなければ、君は吐きそうにない」
 哀しそうに深町が吐き捨てた。そして、胸に仕込んでいた拳銃には触れようとしない。それが堤は恐ろしかった。何故この男は自分に対して銃口を向けないのだ? そうすればもっと恐ろしがらせられるだろうに――そして、それが“脅し”としての効果であることを、頭の良い堤はすぐに察した。そう。深町は自分に対して脅そうというつもりはないのだ。殺すときは何も言わずに拳銃を撃つ。深町亮二という男は、そんな男だ。
「たった一度の依頼ですべてを破棄すると?」
「僕はこの依頼を完遂出来ていない。実態が見えていないんだからね。この事件を未解決のまま抛っておくくらいならば、自分の手で終わらせる。どうしても口を噤んだままならば、僕は君を殺し、すぐさま僕も死のう。それが君に残った責任と、僕に与えられた責任だ」
 深町はそこまで言って、じっと堤を見つめた。堤はなんの反応も見せなかったが、やがて諦めにも似た笑みを口元に浮かべ――。
「わかりました」
 ――そう、答えた。

 

 

 あの巨大熊は堤が幼いころに拾い、育て上げたものであったという。初めのころはごく普通の熊であったが、ふとしたことから重い感染症にかかってしまった。それは堤が十四歳の頃であり、ちょうど堤が科学を学びだした時期だった。堤はなんとか熊の病気を治そうとしたのだが、どれもこれも思わしくない結果に終わることになる。どうしようもなくなった堤は、実験薬品が多量においてある自宅の実験室から、一つの薬品を持ってきた。それはまだ改良中の未完成の薬品であったのだが、一縷の望みをかけてそれを熊に投与した。すると熊の病気はみるみるうちに良くなり、健康を取り戻していった。しかし、それと同時に熊の異常発達も始まったのだ。堤が大学に入る頃にはもはや世界でも類を見ないほどの成長を遂げており、手に負えなくなった堤はそれを天辺玖島へと放したのだ。――いや、天辺玖島ではない。もともとあの島に名前などないのだ。天辺玖島、というのは堤が深町に依頼をするためにつけた仮の名前なのだから。もともとあの島は堤の親が所有している島だった。特に価値もないものであったのだが、自然が多いこともあるし、なにより化学実験をするためなどに有効であろうと購入したらしい。後になって聞いたことだが、天辺玖島の“あまべく”は“くま”と英語で熊を表す“BEAR(ベア)”を並べ替えた言葉なのだ。
 異常成長を遂げた巨大熊を退治しようと、堤は何人もの腕自慢に依頼したのだが、それはことごとく失敗に終わっていた。当然、深町に話した話のほとんどがでたらめである。天辺玖島で動物狩りが流行っている、だのというのはまったくの作り話だった。しかし深町はそんなことどうでもよかった。あれほどの強大な相手とは滅多に出会えるものではないし、なにより――この絵だ。
 あのフランスの印象派を代表するルノワールの作品。宝石や絵画といったものを何よりも愛する深町のことだから、この報酬は夢のように幸せだったに違いない。ことにこの『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢の肖像』の美しさといったら、ため息が出そうなほどだ。黄と茶の間のような色で波がかった長い髪の毛。まるで秋の木漏れ日の中揺れる木々のように涼やかで端麗だ。上目遣いの緑色の瞳は憂いを帯び、濡れたような表情が見ているものの気持ちを穏やかにさせる。なんていいものをもらったんだ、と深町はもう一度その絵画に向かって目を向けた。
「あ、どうも。深町さん」
 扉が開く音とともに現れたのは、堤であった。そして隣には一人の刑事がいた。自分が新米の頃から縁のある武田刑事だ。
「ほら、ここに保管していたんですよ」
「本当ッスね。いやあ、申し訳ないッスねぇ、疑ったりして」
「いえいえ。高価な品ですから当然ですよ」
 深町はぽかんと口を開けたまま、二人を交互に見ていた。すると堤がにっこりと笑って深町に問いかけた。
「深町さん。この絵、どうでした?」
「え、あ、いや。すごく気に入ったけど……」
「そりゃあよかった。それじゃあ、返してもらいますね」
 そう言い終わると武田がすばやく絵を包み、それをわきの下で担いだ。何がなんだかわからない深町だったが、言葉を言えばいいのか、体を動かせばいいのか、それすらもわからず呆然と立ち尽くしていた。
「“一週間この絵画を自分のもののように扱える”というのが今回の報酬ですので」
「いや、これ、貰えるんじゃなかったの?!」
「まさか。差し上げるなんて一言も申し上げていませんよ」
「そんな馬鹿な……」
 そう言うと同時に、深町はかつて堤と交わした会話を思い返していた。

 

「“イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢の肖像”じゃないか!」
「さすが、深町さん。ご存知でしたか。深町さんほどの鑑定眼があれば言わずもがなだとは思いますが、一応、本物です」
「当り前さ。贋作にこれほどの重みは出せるもんか。堤くん、こんなものどこで手に入れたんだい?」
「すいません、経路については申せないんです。ただ、危ないことはしていないのでご安心を」
「……それならいいんだけどさ」
「気にいっていただけたのなら、深町さんにお渡ししますが……どうですか? 引き受けてくださいますか?」

 

 確かに、これが報酬だ、とは堤は一言も言っていない。しかし、あんまりだ。会話の流れから通常貰えると判断してもおかしくはないだろうに。
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待ったーっ!」
 深町は右手を大きく上げて二人を制止した。武田は首だけ回し深町を見たが、会釈だけして深町探偵事務所を後にした。残された堤は、深町に大きくお辞儀をするととびきりの笑顔で口を開いた。
「今回は本当にありがとうございました。超一級の美術品を少しの間でも自らの手にした気持ち……それが僕の報酬です。それでは……」
 そういい終わると、堤はもう一度大きく深町に頭を下げた。
 堤の言葉など、もはや深町の耳に入っていなかった。ただ、無機質に閉まっていった探偵事務所の扉を呆然と見ながら立ち尽くすばかりだった。三百円もした武器を使い、アバラ骨二本にヒビを入れ、やっとの思いで手にした報酬が一週間の夢心地だけだったとは。怒り、悲しみ、そして茫然自失――深町は、次々に溢れてくるさまざまな感情を堪えきれずにいた。

 

 


⇒To Be Continued...


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