#9.意地の理由
「いたたたた……」
「ごめんね、ごめんね足立くん」
擦り傷の出来た頬を抑えながら足立は小さく呻く。あおいはその姿を見て何度も謝っていた。もう何度目かわからない。これだけ謝られると足立もなんだか申し訳なく思ってしまう。
足立とあおいはあれから恋恋高校へと戻っていた。途中明彦が「自分の家に来るか」と言ってくれたのだが、流石にそれは忍びない。なにせ不良にからまれ、ボコボコにやられたわけだ。助けてもらった上にそこまでしてもらうのは気恥ずかしかった。どうやら足立にも人並みに男の意地というものがあったらしい。
足立の遠慮に明彦は意外にも「そうか」と簡単に答えて納得して見せた。足立の思いを汲んでなのかはわからないが、とにかく足立にとっては有り難かった。しかし、その後がまずい。ともすれば、明彦の好意を断ったことが裏目に出てしまいそうなほど。
足立は、足元がおぼつかないでいたのだ。
一人で歩くにはあまりにも心細いほどに、足立はふらついていた。一瞬気を失ったほどだからそれは当然といえば当然の結果だ。まさかあおいに肩を借りるわけにもいかず、結局足立は明彦と直人に支えられながら恋恋高校の門をくぐることになった。
今すぐにでも泣き出しそうな表情で手当てをするあおいの手をそっと押さえ、足立は口元で笑って見せた。
「ありがとう。もう大丈夫だよ」
「本当に? ごめんね、足立くん」
「いいって。僕が好きでやったことだし」
「でも、ボク一人で逃げちゃったのがどうしても気に掛かって……」
「それこそ僕が望んだことだから、むしろそうしてくれてありがとうと言いたい気分だよ」
伏し目がちなあおいをたしなめるように足立が言う。あおいはもうすっかり気分が沈んでしまっているようだった。保健室のベッドに腰掛け、目の前にあおいが丸椅子に座っている。二人きりならよかったんだけどな、とそんなよからぬことを思いながら、足立は入り口に視線を向ける。そこには入り口の壁に寄りかかるようにして立っている明彦と、保険医である理香となにやら親しげに話しこんでいる陽崎の姿があった。
「いやあ、恋恋高校にこんな美人の先生がいたなんてなあ。オレ、恋恋に編入しちゃおっかなー」
相変わらず陽崎が軽口を叩いている。
「あら、若いのに上手ね」
「若いだなんて。センセと三つくらいしか変わらないッスよ」
双方理解済みの世辞をおくびもなく発する陽崎は肝が据わっているというか、怖いもの知らずというか……。しかし足立は、そんな陽崎を少しだけ羨む気持ちを持ってしまった。そういえば自分はああいう風に女性を真っ向から褒めると言うことが苦手だ。結果の是非はともかく、行動に移せると言う点は尊敬すべきところだ。
「さて、足立君」
理香は陽崎のマシンガンのような美辞麗句を軽く受け流しながら、こちらに向かって話しかけた。足立は思わず姿勢を正し、上ずった声ではい、と返事をする。
「相変わらずだけど、あまり無茶はしないようにね。今回はたまたま一文字君や陽崎君に助けられたみたいだけど」
「はい。申し訳ありません」
「わかっていればいいんだけど。とにかく……そうね。一週間ほどは練習はお休みなさい。お願いね、早川さん」
「あ、はい。わかりました」
あおいは力強くうなづいた。足立に怪我をさせてしまったという思いが少しでもあるのだろうか。足立は場違いだと思いながら少しだけ胸が高鳴る思いを感じていた。
「加藤先生」
タイミングを見計らっていたのか、あおいが続けるようにして口を開いた。
「なあに?」
「今日、グラウンドを使ってもいいですか?」
「うーん。わたしにはちょっとわからないけれど……大丈夫なんじゃないかしら? 野球同好会は理事に気に入られているようだし」
そこまで言うと、理香は慌てて口を塞いだ。
「っと。それはここで言うことじゃなかったわね。とにかく、使っていいと思うわよ」
あおいは理香の反応に疑問を持ったかもしれないが、特に追求することはしなかった。
「わかりました、ありがとうございます。なんだか、すごくボールを投げたい気分なんです。ね? 行こ、足立くん」
そう言って、あおいは足立の手を握って立たせようとした。足立は慌てて腰を浮かし、あおいに習う。
「あーっ、じゃオレもーっ!」
ぴょこっとジャンプをするようにして、陽崎が近づく。その後くるりと顔を明彦のほうへと向けた。
「明彦はどうする?」
陽崎の問いかけに、明彦は「ああ」と返事をした。かと思うと保健室に備え付けられていた丸椅子へと座り込み、入り口を指差した。
「後から行く。少し疲れたみたいだ」
そか、と陽崎が短く答え、足立たちに向かってとびきりの笑顔を見せた。釣り目気味だから、なんだか猫のような印象を受ける。改めて見ると、彼はかなり美系の類に属されるのだろう。やはり明彦の隣にいるから霞んでしまっているようだ。
明彦の突然の停滞に疑問を持たなかったわけではない。何故彼はここに留まろうとしたのだろう。確かに五人ほどの不良を薙ぎ倒したばかりなので、疲労が溜まっていると言うのもわかる。しかし……足立は何か奇妙な違和感を覚えていた。だがそれを確かめようとは思わない。
今は目の前で、あおいが自分を必要としているのだから。
*
見れば見るほど綺麗な男の子だな、と理香はそんなことを思っていた。
ワックスをつけているのか、てらてらと赤く光っている艶やかな黒髪。切れ長な日本人離れをした青磁色の細い瞳は心の奥を見透かされそうな魅力を持っている。確か彼は、一文字コンツェルンの社長令息だったと記憶していた。
一文字コンツェルン――日本、いや、世界中の成人なら誰でも知っているような大企業である。一文字明彦は、その一人息子だった。いや、確か兄がいたのだったか……これは別の企業か。その辺りの記憶は曖昧だが、とにかく明彦は想像しがたいほどの大金持ちの息子ということは確かだった。そんな明彦をはじめは「世間知らずのお坊ちゃま」と言う風に思っていたが、それは出会った瞬間に間違いであったと思い知らされた。
足立を連れてきたときに大人な立ち振る舞いに、適切な言葉遣い。物怖じしない姿勢と、ずば抜けた洞察力。『完璧な人』――理香はいつしかそんなことを思っていた。
「驚いたわ。聖皇学園に通っているような身分のあなたが、まさか五人も叩き伏せたって聞いたときは」
明彦は窓辺に立ち、グラウンドを静かに見つめている。理香の言葉が終わると同時に、す、と顔を少し回した。その時明彦の端正な横顔が見えて、理香はほんの少しだけ顔が上気するのを感じる。まさか、一回りも年が違う男にこれほどまで異性を意識することになるとは思わなかった。
「聖皇学園に通っているような身分だからこそ、なんです」
なんとか聞き取れるような小さな声で明彦が返事をした。
「俺や陽崎は、幼いころから護身術を習わされていましたから」
「護身術?」
といったところで、理香は「ああ」と一人納得した。
「誘拐、ね」
「はい。今まで俺は、少なくとも八回の誘拐、並びに未遂の被害に遭っています」
明彦はそう淡々と話す。
一文字コンツェルンの社長令息として生まれ、何不自由なく育ってきた。そんなイメージが一蹴されていく。明彦は今まで、どれほどの辛酸を舐めてきたのだろうか。それはきっと、理香が想像もつかないようなことなのだろう。
「加藤先生」
明彦の低い声が保健室の空間を支配した。理香は動揺を隠すように務め、「なにかしら」と返事をする。
「先生の“研究論文”、非常に興味深く読ませていただきました」
理香は明彦の問いかけに答えることはしなかった。ただ口元に微笑を浮かべて、まっすぐに明彦を見つめている。明彦はというと理香に目を合わせることもなく、ただ本棚から取り出した小冊子に目を落とし、相変わらず静かに立っていた。
「意外ね。あの論文は日本医師会が発表を許さなかったはずだけど」
「一文字コンツェルンに入らない情報はありませんから」
ぱたん、と冊子を閉じる音。明彦が見ていたものは……それを確認したとき、理香の顔色が変わった。
蔵書は恐らく二百冊超。しかもあの書類は本棚の奥深くに仕舞っていたはずなのに、何故それをわざわざ取り出して――そんな様々な思いがめぐる中、理香は次の動向を静かに待っていた。彼は一体なんのつもりで一人保健室に残ったのか。
――読めない。
彼はまだ十台も半ば。年端もいかない、少年といっても差し支えない年齢なのに、まるで壮年のように落ち着いた態度を見せる。そしてその静かな物腰の奥で恐ろしいほどの計算がなされている。態度、言葉、その他様々なもの――彼は、まるで精密な機械のようだ。少しでも油断をすると一気に何もかもを吐き出してしまいそうになる。理香は、そんな明彦に少しだけ敵意を感じていた。
明彦がその敵意を感じたかはわからない。ただ無表情の奥で少しだけ笑顔のようなものが垣間見えた気がする。それは自分にどういった感情を向けてのことなのだろうか。明彦はゆっくりと目を閉じ、す、と体を回転させる。保健室のドアに手をかけ、こちらを振り返ることなく言葉を発した。
「貴女の足立との関係……わかった気がします」
ドアの閉じる音とともに、少年は姿を消した。保健室に残ったのは嫌味なくらいな静寂と昼下がりの強い日光。
理香は今はいない明彦の面影を目線で追いながら、一人頭を抱えていた。
*
早川あおいのボールに足りないものはなんなのだろう。足立はあおいのボールを受けながら、ひとりそんなことを考えていた。
以前彼女と“一打席勝負”をして勝ったことで余裕が出ているのかはわからない。とにかく足立はあおいのボールが未だ不完全なような気がしてならないでいる。もちろん最高球速や変化球の弱さにスタミナ不足。弱点を挙げれば山ほどあるのだが……そんなことではないような気もしていた。何か、あおいには決定的に足りないものがある。そんな予感めいたものが足立の頭を過ぎっている。
あおいの綺麗な投球モーションのあと、変化球が足立のミットに収まった。その時に彼女のシャツがふわりとたなびく。せっかくお洒落をしてきたというのに、汗だくにさせてしまったな、と足立は一人自嘲していた。
「ねえ、足立くん」
「ん、なんだい」
足立は返球しながら事も無げに答える。
「ボク、都川くんに勝てるかな?」
「またずいぶん唐突だね、どうしたの」
あおいはグラブを外し、足立のそばまで近寄ると、ゆっくりとしゃがみこんだ。それにつられたかのように足立もあおいの隣に腰を下ろす。グラウンドの隅で練習を見ていた陽崎が何事かと目を丸くしているようだが、とりあえず今はどうでもよかった。
「速球にスタミナに変化球……ボク、都川くんに勝ってるところといえば、コントロールくらいしかないなあって思ってさ」
「ふん。確かにそうだね」
都川光一は速球投手である。切れ味のあるスライダーは評判が高いが、なにより彼の武器は140km台をマークしている速球だ。高校一年生であの球速が出せる人間はそういない(もちろん150kmを超える速球を放つ明彦のような人間もいるが、彼は特例中の特例だ)。しかしそのため都川はひどくコントロールが悪く、足立は都川と投げ込みをしている度に毎回肝を冷やしているのだが、それでも都川が一流であることは明白だ。たとえこの地区一番の強豪校であるあかつき高校野球部でもそう簡単に打ち崩せる投手ではない。そんな都川にライバル意識を燃やしているのは良いことなのか悪いことなのか……足立はしばらく閉口していた。
「やっぱり、あおいちゃんには武器が必要だなあ」
ほとんど独り言のように呟いたその言葉に一番驚いたのは、足立自身だった。
あおいに……武器?
そうだ。彼女にはこれといった武器が何一つとしてない。
都川や明彦なら速球。桐島や陽崎なら打率。スカウトの目に留まる選手というのは何かしらの武器をもっている。反面早川あおいに武器はない。速球、制球力、持久力、変化球その全てが相手を圧倒するほどのものではない。
「あおいちゃん」
「なに?」
「武器をつくろう」
「武器?」
「うん。君にしかない武器さ。速球、コントロール、スタミナ変化球なんでもいい」
「うーん。ボクならどれがいいのかな」
「速球は難しいだろうね。でも制球力なら広島カープの新井選手みたいな信じられないような投手もいるし、スタミナも……やっぱり身体能力の差があるからなあ」
足立の言った男女“区別”にあおいは些かの反感を覚えたようだが、これといった反論はしなかった。常日頃から「女の子だからといって〜」と言っているあおいだが、そんなあおいだからこそ男女の違いは重々承知しているはずだ。彼女は女性である自分を真っ直ぐに見つめ、その上で野球選手として大成したい。そう思っているはず。だからこそ足立も臆することなく区別をする。あおいが怒りはしなかったのも、そんな足立の想いが通じたからなのだろう。
あおいはしばらく考え込んでいたが、あるとき何かを思い立ったような表情を見せ、足立を見つめた。勢い良く立ち上がったのちに両手を腰に当て、足立に向かって諭すような表情を向けている。
「じゃあボクは、球界一の変化球投手になるよ」
あおいは――とびきりの笑顔でそう言った。
球界一の変化球投手……か。言うが易し行うが難し――果てさて。
「大きく出たね。それでこそあおいちゃんだ」
足立の屈託ない笑顔を見て、あおいは心なしか顔を上気させる。ほんのりと赤く染まった頬とはにかんだ表情が、足立の心をどうしようもなく高鳴らせる。
ここ、恋恋高校に来たからこそ――彼女に会えたからこそ――そんなことを思っていた。
初夏の強い日差しが顔を明るく照らす。足立は右手で影を作りながら、ふと校舎のほうへと目線を移動させる。視界の端で陽崎がぴょこんと立ち上がる姿が見えた。それと同時に、校舎の中から歩いてくる、明彦の影を確認する。明彦は両手をポケットにいれ、悠々とした態度でこちらへ向かって歩みを進めていた。一度あおいは足立の顔を見たあと、明彦のほうへと振り向いて右手を振るった。それ見て明彦は片手を挙げ軽い返事をして見せた。普通に片手を挙げただけなのだが、そのジェスチャーがあまりに彼に似つかわしくない、幼くおどけたもののように見えてしまい、足立は一人苦笑している。
「練習ははかどっているか」
足立とあおいの近くまで来ると、明彦は開口一番そう言い放った。あおいが大きく首を振り、満面の笑みを明彦に向けている。
そのとき――足立の頭に一つの妙案が過ぎった。
先ほどあおいと話していた『球界一の変化球投手』。それはもしかしたら、今目の前にいる一文字明彦その人のことではないのだろうか。
確かに明彦は速球投手で名を馳せている。しかし、彼の輝かしいまでの成績を支えているのは、実は切れ味抜群の変化球にあると足立は感じていた。明彦が投げられる球種はスライダーとフォークというなんの変哲もないものなのだが……そのキレのよさはプロ顔負けといっても差し支えないはずだ。一度麻美と明彦の投球をビデオで見たことがある(全国中学野球大会のものだった。明彦と陽崎は同じ学校で新潟代表として出場しており、三年生のときに優勝もしている)。その時の明彦の投球を見て、足立はとても感銘を受けたことを覚えていた。一文字明彦が投げたスライダーの変化は、まさに“変化球”と呼ぶに相応しいものだった。まるでピンポン球を投げているかのような変化に、足立はひどく興奮した。
ならば早川あおいは、一文字明彦に師事を請うてみればよいのではないだろうか。
それはいかにも足立らしい、合理的なものであったが……そんな案が浮かんだことに自分自身が一番驚いてしまった。
何故?
それは――。
決まっている。
足立はふっと一人口元に笑みを浮かべ、小さく首を何度か横に振るった。慣れたとはいえ、自分のおかしな性癖にも困ったものだ、と心の中で自嘲の声が聴こえる。隣で何事か話している明彦とあおいの様子すら、足立はなんだかとても遠い場所で行われているように感じていた。
やっぱり自分は――傍観者だ。
傍らで見守る者。そんな位置が心地よい。足立は昔からそんな男だった。決して目立とうとせず、ただひたすら誰かを護り続けたい。麻美に抱いた“愛情”や、加藤理香に対しての“想い”……その他いろんなことが足立の脳内を駆け巡る。そう、初めてあおいと出会った日に抱いたあの強烈な思いも、足立は未だに忘れられないでいた。
そうだ――やっぱり――やっぱり僕は彼女を――。
面倒だ。厄介だ。不条理だ。そう思いながらも黙認してしまう自分もいた。合理的主義といえば聞こえはいいのだが。
「一文字君」
気づけば足立は口を開いていた。明彦の目線が自分へ向かってくるのを感じ取ってから、ようやく足立は彼の目を見つめることが出来た。切れ長の青磁色をした瞳――迫力を感じるが、恐怖などは感じず、むしろ無意識に安心してしまうような目だ。綺麗な顔。テレビに出ているような有名人どころか、フランス絵画などでも彼より美しい人間を見つけたことがない。
「君の投球を見せてくれないかい」
明彦は驚いたのか少しだけ目を見開いた。
「なんだ、唐突だな」
「さっきあおいちゃんと話していてね、彼女、球界一の変化球投手になりたいんだって」
「ふん。えらく大きな目標だな」
「まあね。それで、ちょっとは参考になるかなと思って」
明彦の目線が移ろいでいくのがわかった。何事かと思い目線を追うと、そこには陽崎の姿があった。陽崎は足立の後の方でいたはずなのだが、いつのまにか近くまで来ていたようだ。明彦に話しかけるのがあと数秒遅ければ、恐らく陽崎が先に口を開いていたことだろう。
「なに考えてんだ? 明彦」
陽崎が言う。
「投げんじゃねーぞ」
足立は、耳を疑った。
その陽崎の声が今まで聞いていた彼のものではなく、まったくの別人が発しているもののように聴こえたからだ。
「恋恋高校は地区大会の相手なんだからな」
直後、陽崎はおどけたようにぷい、と唇を尖らせた。それが彼なりのポーズであることが足立にはわかっていた。
恐らく、陽崎は本音で言っているのだ。そしてそれが、この場の空気を壊してしまったと思ったからこそ、彼はおどけて見せた。
喰えない男だ。足立は心の中で舌打ちをする。友人としての振る舞いは申し分ないのだが、締めるべきところではしっかりと締めてくる。高校球児としては“正しい”振る舞いなのかもしれないが、足立はなんだか寂しいような悔しいような、そんな思いを抱いていた。
陽崎の言葉を明彦がどう受け取ったのかはわからない。右手の指でこめかみの辺りをさわり、静かに瞼を閉じる。しばらくそうしていたが、明彦は目を瞑ったまま言葉を発した。
「そうだな。投球は遠慮しておくことにするか」
その言葉にあおいはがっかりして肩を落としたが、足立はそうはいかなかった。何せ、彼ほど優れた変化球を投げられる投手など早々居やしないのだ。相当の評価を得ている都川光一ですら一文字明彦の前ではかすんでしまう。なんとしてでも彼の投球を見せてもらう。そして、あおいに見せてやりたい。足立はそう思って食い下がろうとしたのだが――明彦はそれに気づいているかのような表情だった。軽く口元を曲げ、ほんの少しだけ笑ったようにも見える。
「なら、球場に来ればいいさ」
「え?」
「甲子園の予選。お前たちは出場しないんだろうが、観には来るだろう?」
「ずいぶん気の長い話だな」
「そうでもないだろう。あと一ヶ月もすれば目前だ」
「観に行くよ、絶対に」
足立の答えに、明彦はまたふっと笑って見せた。はじめて見た時はずいぶん無愛想な奴だな、と思っていたが、存外そうでもないようだ。根は人懐っこいのかもしれないが、感情を表現するのが上手ではないのだろう。
会話が一区切りついたと判断したのか、明彦は足立とあおいに軽く目配せすると、手を上げて「じゃあな」と言った。そのまま校門へと歩き出したので、陽崎が慌てて明彦の後を追っていた。こうして見ると何処にでもいそうな高校生なのにな、と足立は二人の後姿を見て思っていた。まあ、何処にでもいる高校生にしては顔の造形が整いすぎているとは思うが――それはさておき。
「足立くん」
残ったあおいが足立に話しかけた。今校庭にいるのは自分とあおいだけ――いつも隣で練習しているみんながいないというのは不思議なものだ。まるで非現実の世界にいるような感覚を足立は感じていた。
「なんだい」
「ボクね」
「うん」
「一文字君に、勝ちたい」
――一瞬、返事をするのが躊躇われた。
一文字明彦に勝つ――それはもはや、日本一の高校生になる、と言い換えてもおかしくないようなことである。あおいがそれほどまでに野心を抱いているとは、正直思っていなかった。けれど、足立はそのことがとても嬉しかった。明彦に勝ちたいと思っていること、そしてそのために自分を頼ってくれていることが、足立はとても嬉しかったのだ。
甲子園大会の予選の日が近づいている。
つい最近まで春の陽気で溢れていたようなのに、今足立の体は夏の気配を確かに感じていた。
早く暑くなれ。そして早く甲子園大会が開催されればいい。そうすればあおいに一文字明彦はその他有能な高校生の投球を見せてあげられる。あおいはまだまだ上達する。きっと、明彦に負けないような投手になれるはず。
足立は、本気でそう思っていた。
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