#1.縁

 

 桜の花が咲いていた。昨晩訪れた台風の接近の爪跡か、足元には泥で汚れた花弁がちらほらと落ちている。生を失ったそれを踏み潰すように出した第一歩は、その男にとって忘れられないものとなるはずだった。
 足立真吾(あだち しんご)はふと立ち止まり、目前の建物を見上げる。等間隔に並べられた煉瓦からは大正モダンな雰囲気が漂い、やけに格式が高く見えてしまう。恋恋高等学校と書かれた校名に目を落とし、足立はふうとため息をついた。そのため息にはどんな想いがこめられていたのか、彼自身知る由もない。ただ、胸の奥からこみ上げてくる何がしかの感情があったのは事実で、それはこれから通う学び舎に対して決して正の感情ではなかったのだろう。
 決して自分と切り離せなかったはずのものが足りなかった。そのおかげでとても身体は軽く、楽に動ける。そのはずなのに、足だけは鉛のように重かった。しかし気分だけはすこぶる良い。絶好の入学式日和だ、とそんなことを独り言のように呟いてみる。
「さて。ガンバるか」
 なにも払拭されるはずはないけれど、足立は誰にも聞かれないようにそっとそう言ってみた。なんだか少しだけ明るい未来が見えた気がする。
 そんなときだった。自分のすぐ近くに誰かが迫っていることに気づいたのは。
 足立はふと首を曲げてみる。そこには長身の男が立っていた。
 セミロングの真っ青な長髪が印象的で、ところどころ癖っ毛のように飛び跳ねている。金色をした大きく丸い瞳は先の長髪と相まってひどく幼さを醸し出している。まだ着慣れない学生服は第一ボタンを大きく開け、中から紺色のシャツを覗かせている。そして彼は、足立にとって、とても縁のあるものを片手に持っていた。
「やあ」
 と、男が話しかけてきた。足立は唇を少し曲げ、きざに笑う。
「やあ」
「君も新入生?」
「うん。てことは君もかい?」
 足立の問いに、男はたくましく胸を張って答えた。
「ああ。おれは都川。都川光一」
 都川光一(とがわ こういち)はそう言うと、足立に向かって右手を差し出した。都川の右手を軽く握り、足立も挨拶を返す。
「僕は足立真吾。ねえ、都川君」
「都川でいいって。同い年なんだから」
「じゃあ都川。君が持っているそれ」
 ああ、といって都川は足立に向かって“それ”を見せ付けた。
「さっきまで壁当てキャッチボールやってたんだ」
 もうずいぶんと長い間使っていたと思われるその“野球グローブ”を、都川は自慢気に見せた。
「野球、やってるんだ」
「ああ、ピッチャーでさ。中学野球じゃちょっとした有名人なんだぜ、おれ」
「ふうん」
 興味なさげに答える足立を見て、都川は口をへの字に曲げ、眉をしかめ、あからさまな不満感を見せ付ける。
「なんだよ、自分で振っておいて」
「自慢話は嫌われるよ、都川」
「へーへー。すゥーいませーん」
 口を尖らせ答える都川を見て、足立は少しだけ苦笑する。
 ……面白い男だな。
 足立の胸がとくりと鳴る。
 いつの頃からか、足立は何事にも関心を覚えなくなっていた。それが何故だかは分からない。ただ自分が進んで感情を押し殺そうとしていたのだな、ということだけはなんとなく感じていた。久々に感じたこの感情は、高揚感にも似た興奮だった。
「都川。お前、何やってんの?」
 急にそんな声が足立の耳を貫いた。声のした方向を振り向くと、そこには男が自分たちを不思議そうに眺める姿があった。
「都川。君の知り合いかい?」
 足立が言い終わるよりも早く、都川は苦笑いをしながら男に対して返事をした。
「おー、わりーわりー。ちょっとトモダチ作りをね」
「なにいってんだよ」
 男は都川の肩をぽん、と叩くと、足立の方へと歩み寄り、じぃ、と瞳を見つめてきた。男の瞳は、まるで吸い込まれそうな焦げ茶色をしている。その瞳の奥は深く、純粋だ。どこまでも見据えられていく気がして、足立は人知れず体を震わせた。
「よう。オレは桐島。桐島潤(きりしま じゅん)ってんだ。ヨロシク」
 桐島が人差し指を立ててウインクをした。どうやら悪い人間ではないらしい。少しだけ底の知れない部分はあるかもしれないが、根底では信用できそうだ。
「ああ。僕は足立真吾。君も恋恋高校の新入生かい」
「まあな。都川とはちょっとした知り合いでさ」
 その言葉がきっかけになったかのように都川が動いた。都川は桐島の肩に腕を回した。
「中学野球の地区大会でいっつもコイツと対戦してたんだよ。まー、こいつのバッティングのうまいこと。最終的に打率三割とかだったからな。バケモンだぜ、正直」
「へえ、中学野球で打率三割か。スゴいな」
 足立の返事に、桐島はふと首を傾げて見せた。
「足立は中学野球に詳しいのか?」
 足立はじっと桐島の瞳を見つめた。そして、口元に笑みを携えて返事をする。
「野球は好きだよ。見てるだけだったけどね」
「野球はやる方がいいさ。どうだ? オレ達と一緒に野球部に入らないか? それで甲子園を目指そうぜ」
 足立の脳裏にかつての自分が過ぎっていく。客席から眺める景色は爽快で、自分たちの学校が得点を挙げるたびに体が自然と踊りだしそうなほどの興奮を覚えたものだ。あの時は何事にも積極的で、興味を持てていたのに、と足立はふと自分の姿を思い返す。
 自分の歩んできた道を否定することなんて出来やしない。足立の“視点”はぐるりぐるりと彷徨い続け、ようやく現在に帰結する。身軽になった自分自身を客観的に見てみると、情けないようでもあり、清々しくもある。
「そうかもしれないね」
「じゃあ」
 都川と桐島の顔が一気にほころぶ。足立は二人に気づかれないよう一瞬だけ足元に目線を移動したあと、にこやかな笑みを浮かべて声を発した。
「少しだけ、考えさせてくれないかい」
 二人の顔つきに一瞬で暗雲が立ち込めた。そんな二人を見て、足立は苦笑にも似た笑顔を見せ、都川の肩を軽くぽんと叩く。
「結論を急がせないでくれよ、それで」
 足立はこほん、とわざとらしく咳払いをした。
「野球部って、今何人いるんだい?」
 都川と桐島がぽかんとした表情を見せた。桐島が都川に向かって何か二、三話していた、それは足立の耳に届くところではなかった。
「えーっと、そりゃどーゆーこった?」
 都川が言う。
「だって、恋恋高校は去年まで女子高だったろう? そもそも野球部なんてあるのかい?」
 ――足立の問いかけに、二人の顔色が蒼白になった。

 

 

 入学式を終えて、一通りの形式じみた授業にもならない時間を過ごし、足立は帰路についていた。昼で下校時間となったので帰りはどこかに寄ろうかとも考えていたのだが、それは校門で待っていた都川光一の姿によって大きく軌道修正せざるを得なかった。桐島はどうしたんだい? とまず問いかけてみたのだが、どうやら彼は理事長の下へと足を運んだらしい。
 二人が調べたところによると、恋恋高校に野球部はなかった。とはいえ早々に諦めるなんてことは出来るはずもなく、なんと桐島は自分たちで部を設立しようと言い出したのだ。その話がどう転ぶかはわからないが、とにかく今その交渉の真っ只中なのだそうだ。
「都川は行かなくてもよかったのかい」
 足立が軽くそう話しかけたところ、都川は照れくさそうに笑ってみせた。
「まーな。おれ、そういうの苦手だし。潤に任せてた方が上手くいきそうだし」
 足元の小石を蹴りながら都川が答える。大体想像していたとおりの答えが返ってきた。桐島は年の割りに落ち着いているような、一言で言えばしっかりしている。そんな印象を持った。一方都川はといえば、落ち着きははっきりいってないだろう。いつもふらふらと自由気ままな風であるし、難しい話なんかも苦手な方なのだろう。しかし足立個人として親しみやすさを感じたのは、やはり都川の方であった。
 今日一度会っただけだというのにすでに帰りを共にしようと思っていたというその行動の早さや勢いもそうだが、話をしていて距離を感じない。正直な性格なのだろう。自分にはないその部分を、足立は少しだけ羨んでいた。
「さて、着いただぜ」
 都川の言葉をきっかけに、足立の足が止まる。目の前には大きな建物があった。
 目の前に飲料水の自動販売機が三台ほど並び、比較的大きな入り口には清潔感がある。広い駐車場と緑を基調にした建造物が一見してゴルフ場かと見間違ってしまいそうになるが、そうではない。その建物の入り口の真上には『パワフルバッティングセンター』と赤い大きな文字で書いてあった。
「バッティングセンター?」
「おうよ。足立もさ、せっかくだからバット振ってみろって」
 そう言いながら都川はさっさとバッティングセンターの中へと入ってゆく。足立は少しだけその姿を見送りながら、都川のあとをついていった。
 パワフルバッティングセンターは基本的に無人である。カウンターもなければ、料金を支払う場所もない。ただ機械にコイン又は自動販売機で売っているプリペイドカードを投入すればすぐにでも始めることが出来る。
 都川は財布を取り出す素振りも見せず、ただ後ろに備え付けてあるベンチに座り込んだ。
「どうしたんだい?」
「先にやってみろよ、見ててやるからさ」
「あまり気は乗らないんだけどな……」
「ふーん。お前、もしかしてアレ? 始めて来る場所とか苦手なクチ?」
「まぁ、それもあるけどね」
 ちらと足立は目線をはずす。そこに、少しだけ興味を持てるものを見つけた。
 ストラックアウト。
 そんな言葉が、足立の頭をよぎった。
「都川、あれ……」
「ん? ああ。面白いだろ。あれがあるから、オレは後でいいっていったんだ。おれ、あっちやるつもりだったから」
「へえ。僕もあっちの方がやりたかったな」
「おいおい、なんだよ。お前ピッチャーやりたいのか?」
「あ、いや……」
 足立の言葉が少しだけ詰まる。都川はやれやれという風な表情で言葉を続けた。
「足立はさ、恋恋の野球部に入るのなら、まだいないポジションにいってくんねーかな? つっても、いるのはピッチャーと外野手一人なんだけどな」
「考えておくよ」
「まぁ、それでどうしてもピッチャーがやりたいっていうんなら仕方ないけどな。おれとポジション争いになるぜ」
「それは嫌だな」
「だろ? だからさ――」
 会話に夢中で気づかなかった、のだろう。二人が話している最中に、先ほど話しに出たストラックアウトのコーナーに人が入っていった。もちろん、それだけなら二人の会話が中断したりはしない。問題は、その人の特徴にあった。
 女性だったのだ。
 それも、ただの女性ではない。二人が午前中まで目にしていた学校の制服を着ているのだ。今、ストラックアウトをしようとしているのは、間違いなく恋恋高校の女子生徒なのである。
 都川が慌ててその女性に向かって駆け寄った。女性は都川に気づかずストラックアウトに興じている。彼女の投法は、サブマリン投法のようだ。そのフォームがあまりに綺麗だったため、都川はすっかり閉口してしまっていた。もしかしたら、この女性は自分よりも多くの球を投げているのかもしれない。少年時代は、朝日が町を照らし始めてから夕日が町に別れを告げるその瞬間まで、終わらない壁当てをしていたというのに。
 今、七枚目のパネルが倒れた。どうやらこれで終わりのようだ。アンダースローの女性は納得いかなかったのか、しきりに頭をひねっている。振り向いたその横顔を、足立はじっと見詰めていた。
 緑色の長い髪の毛をおさげにして、前髪はピンで留めている。化粧っけもなにもない、悪く言えば野暮ったいその顔立ちだったが、かえってそれが彼女の魅力を増しているようにも見える。零れ落ちそうなほど丸くて大きな瞳は、まるで少女であるかのようにも思わせる。
「ねえ、君、恋恋高校の生徒だよね?」
 都川が女性に向かって声をかけた。相変わらず行動がすばやい。足立は先ほどまで都川が座っていたベンチに座り込んで二人の動向を窺っていた。
「え、あ、うん」
「やっぱり。君女の子なのに野球出きるの?」
「女の子なのにってどういう……」
「いやあ、あんなに綺麗なフォームで投げれるんだもん。びっくりしたよ」
 女性は驚いたように目を見開いて、次の瞬間にはおどおどと周りを見回し始めた。
「あ、ありがと」
「おれもピッチャーやっててさ。……あ、ごめん。自己紹介がまだだったよな。おれは都川っていうんだ」
「知っているよ、都川光一君」
「へ?」
「中学のときは有名だったからね」
「え、あ、そう、なのか」
 なんだ、朝は自分で言っていたことなのに。他人から言われると恥ずかしいだけなのだろうか。とにかく、足立は心の中で都川に軽く嫌味を言ってみせた。
「ボクは早川あおい。恋恋高校一年だよ」
「一年か! 一緒の学年じゃないか」
「あ、そうなんだ」
「なあ、あおいちゃん。おれ、今恋恋で野球部を作ろうと思ってるんだけどさ、よかったら一緒にやっていかないか」
「え!? 恋恋で野球部?!」
「ああ。今おれのダチが理事長んとこに話しててさ」
「へえ。野球部なんて、考えもしなかったな」
「一緒に行こうぜ、甲子園」
「うん、行けたらいいね」
「それなら……」
「うん! 僕も恋恋高校野球部に入れさせて」


 楽しそうに話す二人を見て、足立はなんともいえない感情を抱いていた。何も放置されたことに関して怒っているわけではない。ただ、少しだけ哀しかっただけ。放っておかれたことがではない。自分が、その輪に入ることが出来ないことが。

 

……甲子園を目指

 

 二人の見ている夢が、なんと綺麗なことだろう。まっすぐで、純粋で、そして楽しそうだ。出来ることならば自分もあんな風に夢見てみたい。しかしそれは適わない。届くこともない泡沫の夢だ。

 

……君の速球ならきっ

 

 少しだけ頭が痛かった。最近はいろんなことを考えて眠れない日が多かった。そのせいもあるのだろうか。ずきずきとした鈍い痛みがこめかみの辺りにずっとある。なんだか頭が重い。足立はふと上体を下げて、頭を抱えてみた。

 

……おれは、野球を

 

「足立ーっ!」
 都川の声に、足立は一気に覚醒していった。頭を上げると、そこには都川とあおいが並んでいる姿があった。
「恋恋高校のあおいちゃん。おれらと一緒に野球部でやっていくってさ」
 なんとも嬉しそうに報告する都川を見て、足立は微笑ましい気持ちになってきた。気のせいか、先ほどの頭痛も止んできたみたいだ。
「ボクは早川あおい。ポジションはピッチャー。よろしくね、足立君」
 握手を求めるあおいに、足立はす、と右手を差し出した。
「足立真吾です。ポジションは……まだ決まってないんだけど、とにかくよろしく」
 ぎゅ、とあおいの手を掴む。あおいの右手には数え切れないほどの肉刺の痕があった。きっと彼女も幼いころからボールを投げ続けていたのだろう。自分の綺麗な右手とはあまりにも違う、勲章だった。
「そういや足立。お前答え決まったのか?」
「ああ――」
 ふっと一瞬だけ見せた複雑な笑顔には、どんな気持ちが込められていたのかわからない。ただ、そこには確かな決意があった。
「僕も入るよ、野球部に」


 のちに――様々な功績を残し、世にその名を知らしめた恋恋高校野球部。
 その、第一歩目の瞬間だった。

 

 

 

 

 

>>#2.Boy, I'm gonna try so hard


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