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#10.天賦の才

 

 夏の甲子園大会が終わりを告げた。それと同時に各スポーツ紙面では、一文字明彦と陽崎直人の名前が大きく連なることとなっていた。

 

 地方球場のアルプススタンドから見た二人はやはり異質で、信じられないような攻防を繰り広げていた。
 一昨年から夏の甲子園――全国高校野球選手権大会において連続優勝を記録している高校があった。その高校の名は、“日の出高校”といった。一昨年――すなわち、足立や明彦が高校に入学する二年前である。その年に小杉優作という選手が高校入学したことを皮切りに、彼らは思わぬ伏兵としてずいぶん大きく世間を騒がせたものだった。甲子園大会で“常勝”と呼ばれたあかつき高校や、大会の上位常連である帝王実業などの強豪校に次々とぶつかるクジ運のなさなどもろともせず、ひたすら彼らは勝ち続けた。小杉優作ら三年生が卒業するまで、日の出高校は止められない――誰もがそう思っていた甲子園大会であった。
 バックスクリーンにある速度計は、最高『153』kmを映し出した。これが、聖皇学園一年生である一文字明彦の速球だった。バッターボックスに立った日の出高校の四番、鳳真司は一打席目で信じられないという視線をキャッチャーミットに向け、思わず目を奪われた。ミットに収まったボールがいまだ、煙を立ち上らせながら鋭く回転をしているような錯覚を覚えたからだ。その鳳の態度に気づいたかどうかはわからないが、キャッチャーマスクの奥で陽崎が唇を静かにゆがめる。その一球で、陽崎は勝利を確信していたのだ。
 鳳は甲子園大会の覇者である日の出高校で四番を務めている男だ。ただの速球で打ち取れる打者ではない。
 しかし、それでも明彦の球にバットを当てることは出来なかった。
 四打席、無安打。明彦の速球に鳳はかつて感じたことがないほどの威圧感を覚えた。たしかに、速い。変化球のキレも良い。だが――それだけではない。その理由がわからなかったからこその、無安打だったのだ。
 三度目の甲子園大会。いまだ無敗で勝ち上がっていた日の出高校と聖皇学園の試合は、一文字明彦の完封勝利で幕を下ろした。

 

 

 足立が所属している恋恋高校野球同好会は今年部員が足りず、公式大会に出場することが出来なかった。しかしそれでも夏は過ぎるし、同じように秋の気配はやってくる。一文字明彦の鮮烈過ぎる“高校デビュー”は足立に強い対抗意識と、些細な劣等感を覚えさせた。帽子の影に隠れてはいたものの、時折垣間見える上気した頬と整った横顔が、ブラウン管の向こうで彼の魅力を引き出している。二枚目という言葉で表すにはあまりにも拙い。その上有り余るほどの腕前を保持している彼は、十五歳にしてすでにスターの才能を感じさせていた。
 きっと、一文字明彦のような男なのだろう。プロ野球選手になるような人種は……。
 足立は独りそんなことを思い、その度に胸の苦しくなるような感情に襲われる。今、自分のすべてを賭けてまで望むことを見つけたはずなのに、突如現れた“本物”の才能を前に自分はなすすべもなく立ち尽くしている。たとえ恋恋高校野球部で試合が出来るようになったとしても、一文字明彦はいずれ戦わなければいけない敵なはずだ。
 あおいは、どんな気持ちなのだろう。
 あの日――あおいと“デート”をして、その帰りにあかつき高校の不良に絡まれ這々の体だった所を一文字明彦に助けられたあの日。彼と図らずも交友の芽を見つけることが出来たことに、足立は密かに嬉しく思っていた。彼があおいのコーチをしてくれれば、きっと恋恋高校野球部はもっと強くなる。引いては、自分の“悲願”が達成される――。あおいが明彦に勝ちたいと言ったときから、足立の心は決まっていた。その日のうちに明彦と連絡を取り、あおいの指導をしてくれと頼んだ。明彦の返事はイエスともノーともはっきりせずうやむやであったが、そのことをあおいに伝えたとき、彼女は例えようもなく喜んでくれた。
 結果はよかったとはいえ、やはり一文字明彦は恋恋高校にとっては紛れも無く敵である。そんな彼に頼むことだったのだろうか? もっと他に手段はあったのではないだろうか。
 足立は迷いを断ち切るように頭を振る。――違う。手段はどうあれ、やはり明彦しかいない。あれほどの実力を持ち、優秀な頭脳を持った男が手の届くところにいるのだ。言葉は悪いが、それを利用できなくてどうする。足立の考えは結局、そんな風な結論に達したのだった。

 

 練習も終わり、着替えを終えて忘れ物のないことを確認してから、足立は自分のロッカーを閉めた。後片付けなどに少し手間をとられたせいか、今日は自分が最後のようだ。入り口に置かれた小さな台の上に更衣室の鍵がある。最後に更衣室を使った人間は鍵を閉め、その鍵を職員室へと返すことになっている。足立はその鍵を取ろうと近づいたが、そのときに更衣室のドアが急に開いた。
 そこから顔を覗かせたのは、酒井であった。
 酒井も驚いた様子で足立を見ると、その後気まずそうに目線をそらせる。酒井にしては珍しい反応だな、と思い足立は不意に声をかけてしまう。
「どうしたんだい、酒井くん」
「ああ、いや、ちょっと忘れもんをさ」
 そう言って酒井はそそくさと自分のロッカーへと移動した。
「酒井くんは今日一人で帰るのかな」
 桐島や都川はもう大分前に帰ったはずだ。今だに残っているからにはそれ以外考えられなかった。ただ黙っているのも不自然な気がしたので、特に考えも無く口にした問いかけだった。
「いや、それがさ。今日は七瀬の家に行くことになったんだ」
「え? はるかちゃんの?」
「ああ。なんか保健室まで運んでやった時のお礼だってよ」
 この間……ああ、と足立はすぐに納得した。
 確か以前はるかは校門の前で急に体調を崩し、気を失ってしまうという事態があった。その時にかけつけたのが酒井で、彼のおかげではるかは無事に休むことが出来たのだ。春先の出来事だったが、ずいぶん前のことなのにどうしてまた、と足立は聞いたが、酒井は曖昧に首を振るだけだった。
 酒井が更衣室から出て行くのを確認してから、足立も続いて廊下に出る。鍵を職員室に返してから……さて、今日はどうしようかと思案にふけった。時間はもう八時半をまわっているが、このまま直帰するのも勿体無い。足立はなんとなく軽くなった足取りで校門へと向かうと、そこにあおいの姿を見つけた。
 あおいも着替えを済ませ、帰る準備はもう整っているようである。彼女は校門の前で立ち止まり、不安そうにきょろきょろと周りを見回していた。
「やあ、あおいちゃん」
「わ、足立くんか。どうしたの?」
「今から帰るところなんだ。あおいちゃんこそどうしたんだい」
「はるかを待ってるんだけど、中々来ないんだ」
「はるかちゃんなら酒井くんと一緒だよ」
「え? 酒井くんと?」
「うん。ほら、五月頃にはるかちゃんが倒れちゃったことがあっただろう? その時助けてくれたのが酒井くんで、そのお礼だってさ」
「なんだ。もう、それならそれでメールくらいして欲しかったのにな、はるかのやつ」
 不満げに口を尖らせるあおいに、足立は苦笑を向けるしか出来なかった。
「今日は僕と一緒に帰ろうよ。もう真っ暗だしね」
「うん。そうだね」
 あおいと肩を並べながら、足立は恋恋高校を後にした。そういえばあおいと一緒に下校をするというのは初めてだ。なんともいえない充足感が胸の奥で埋まってゆく。
「それでね、足立くん」
 隣から入るあおいの他愛ない話題すら、足立には至高の音楽のように思える。一緒に下校をするだけでこれほど優しい気持ちになれるものなのか。足立は隣にいるあおいを心の底から慈しむような気持ちに駆られていた。
 すっかり日の暮れた町並みを街灯が淡く照らしていた。恋恋高校の付近はどちらかといえば栄えているほうだろう。オフィスビルも多ければ、多種多様な店舗が存在する。居酒屋、衣服屋、カラオケ、ゲームセンター……どんな種類の店だって、この辺りでは大体が存在しそうだ。もっとどちらかといえばオフィス街なので、デートスポットといえるものはない様子である。だからこそ以前あおいとデートをしたときもわざわざ電車に乗って遠くまで行ったのだ。
「あ、ほら、足立くん」
 あおいはそう言って、スカートを揺らせながらクレーン・ゲームのディスプレイに駆け寄った。クレーンを動かすボタンのある台座に両手をつき、あおいはトランペットを欲しがる黒人少年さながらな瞳で商品であるぬいぐるみに目が釘付けられていた。
「かわいー。ねえ、足立くん」
 あおいが指差したのは、熊がモチーフとなったデフォルメキャラクターであった。ほぼ1,5頭身の体は必要以上に生えた体毛で覆われている。
「うん、そうだね。モッコモコだね」
「こんなの抱きしめたら気持ちよさそうだなぁ」
「あおいちゃん、ぬいぐるみが好きなの?」
 足立の他愛のない質問に、あおいは一瞬だけ真顔になり、そのあと不自然とも言えるほど大げさな笑顔を見せた。
「え?」
「え、あ、いや、そんな意味じゃなくてさ。うん。可愛いなあモッコモコだなあ」
「まったく、足立くんっていつも調子いいんだから」
 そう言ってあおいはぷいと顔を背ける。足立は困ったな、と口にして軽く頭をかいてみせた。あおいはそんな足立を見て唇を少しだけ歪ませる。そんな悪戯っぽいような笑みを見せてからゲームセンターの中へと入っていった。駆け足で先を越されたせいで、足立は図らずもあおいの後を追うという形になった。店内は入り口付近に大型の音楽ゲームの筺体があり、その奥には格闘ゲームを主流とした形のディスプレイがずらりと並んでいる。今はもっとも人が入る時間なのだろうか、その殆どの椅子が埋まっていた。スーツを着たサラリーマンから、詰襟を着た学生風の男。実にいろんな人間がいるものだ。さて、あおいはどこへ行ったのかと探そうとしたが、足立は不意に足を止め、一つのゲームの筺体に目を向ける。
 その椅子に座っていたのは、紛れも無く陽崎直人であった。
「陽崎くん?」
 陽崎はゲームの画面から一瞬眼を離し、足立を見るとすぐさま画面に目を戻した。その後慌てて足立に向きなおし、「おお」と驚いたように口を開いた。
「足立? よー、久しぶり! 偶然だな!」
 陽崎がそう言ったとき、画面で“KO”という声が聞こえた。
「だああ! ミスッちまった! やっべえ! これであと一人じゃねーか!」
「あ、ごめん。僕が声をかけたせいかな」
「わりーな、足立」
 そう言うと、陽崎はすぐさまゲームに集中し出した。
「いやいや、僕はいいんだけど……陽崎くんがいるってことは、一文字くんもいるのかな」
「ああ、その辺にいると思うぜ」
 陽崎は画面に目を向けたまま早口でそう答えた。
「じゃあ、邪魔しちゃ悪いから僕は行くよ」
「おう」
 やはり陽崎の返事は簡単なものだった。

 

 店内はなかなかの広さを誇っているようだ。ただでさえ広いのに、さらに三階までゲームセンターのようなので驚かされる。一階が音楽ゲームや格闘ゲームが主流のコーナーで、二階はコインゲームのコーナー。それにプリクラなどがある。そして三階にもう一度はクレーンゲームがメインになっているようだ。足立はあまりゲームに詳しくは無い。というより興味が薄いといったほうがいいのかもしれない。少々退屈を感じながら、ゲームセンターの店内を歩き回る。二階にあがり、コインゲームコーナーを抜けた辺りで、足立は立ち止まった。それは、一文字明彦の姿を見つけたからだった。
 明彦はスロット型のゲームに興じており、時折淡々と機械的な動きでボタンを押している。足立は明彦の後ろまで歩み寄り、「やあ」と簡単に声をかけた。明彦は振り向いて足立の顔を確認すると、表情を特に変えずに「よう」と小さく返事をした。
「ええと、まずはおめでとう、かな」
「ああ、甲子園か。ありがとう」
 そう言うと、明彦は立ち上がり、席を指差した。
「足立、スロットやるか」
「え。なんだい、いきなり」
 明彦は特に返事を返すことなく、スロットの残り数を指差した。その数字を見て、足立は目を疑った。そこには、783の文字が映っていたからだ。足立もスロットに詳しいほうではないが、この数字がとんでもないというのは理解できる。確かゲームセンターのスロットは100円で30ほどのクレジットを元手に回すはずである。つまり、この時点で明彦は20倍以上の元手を稼いでいることになるはずだ。
「終わらないんだ。どうもこのスロットは目押しが出来るらしくてな」
「目押し?」
「ああ。リールの配列さえ覚えていたら当て放題なんだ」
 だからといってこれほどまで確実に当たりを重ねられるものでもないだろうに……足立は半分呆れたような思いを抱いていた。とりあえず足立は席に座ると、簡単にスロットを始めだした。回転するリールにはとてもじゃないが目が追いつかないし、どれを当てればいいのかもわからない。とにかく赤い7を揃えようと頑張ってみるが、なかなかうまくいかなかった。時折鈴の形をしたマークやサクランボでクレジットは増えるものの、長い目で見れば確実に減っていくのがわかった。
「今日は陽崎くんと一緒だったんだよね」
 足立はスロットをやりながら明彦に声をかけた。どうせスロットには興味がないのだ。明彦もクレジットを消費してほしいからこそ足立に変わったのだから、適当に打っても問題ないだろう。
「ああ。会ったのか」
「うん。格闘ゲームをやっていたよ」
「もう二時間近くやってる。そろそろ帰りたいんだがな」
「はは。陽崎くんの相手は大変そうだね」
「足立は一人か?」
「ううん。あおいちゃんと一緒だよ」
「早川?」
 そう言った時点で、足立は思い出した。そうだ、自分はあおいを追ってこのゲームセンターに入ったはずだ。あおいは今頃一人でいるはずなのだから、探さなくては。足立は席を立つと、明彦に片手で「ごめん」のサインを出した。
「そうだ。あおいちゃんを探さなきゃ。何処に行ったんだろう」
「一人にしたのか」
「うん。というか先に入っちゃってね。入り口までは一緒だったんだけど」
「上じゃないのか。クレーンゲームのコーナーがある」
「そうかも。ちょっと行ってくるよ」
 明彦はスロットの筺体にちらと目を向けたが、そのまま放置して足立のあとを追ってきた。明彦は見かけによらず、意外と心配性なようだ。以前あかつき高校の生徒に因縁をつけられリンチに遭った時も、明彦はあおいに事情を聞くや否やすぐに駆けつけてくれた。今も明彦はあおいの身を案じ、自ら動いて探そうとしてくれている。足立はそんな明彦の姿を見て、少し複雑な気分を抱いていた。
 あおいはすぐに見つかった。エスカレータを昇ってすぐのところにあるクレーンゲームの傍に立っていたのだ。中にある景品は、有名なアニメに出てくるキャラクターのぬいぐるみである。あおいは昇ってきた足立と明彦の姿を見つけると、両手で口を覆ってみせた。その後、何かに背中を押されたかのような勢いで明彦のそばへと駆け寄った。
「一文字くんっ! 偶然だね、どうしたの?」
「たまたま足立と会ったんだ」
「そっか。ねえ、一文字くん」
「なんだ?」
「ボクのコーチは、いつしてくれるの?」
 うっ、と明彦が呻くのがわかった。思わず無意識に一歩後ずさった明彦だったが、あおいはすぐに手を伸ばし、明彦の右手を握る。
「返事、聞かせてくれないの?」
 そう言ってあおいは唇を歪ませる。勝ち誇ったような、それでいて好感が満ちているような表情であった。
「とにかく、手を離してくれないか」
「やだよ。だって手を離したら一文字君、逃げちゃうでしょう?」
「逃げないから離せ」
「ダメ」
「離せ」
「いーや」
 ふう、と明彦は大きくため息をついた。その後助けを求めるように足立に視線を向けたが、足立は苦笑いを浮かべたまま首を振っている。明彦は目で「おい、この女どうにかしろ」と言っていたが、足立は同じように「僕には無理だよ」とやはり目線で返事をした。
「わかった、わかったよ」
「コーチしてくれるの?」
「ああ」
「じゃあいつにしよっか。日曜日?」
「日程も今決めるのか」
「逃げちゃダメだよ、一文字くん」
 明彦は鞄から手帳を取り出すと、それに視線を落とす。あおいは顔を近づけ、明彦の手帳を覗いた。
「うん、じゃあこの日にしようよ」
「……あぁ」
 その時明彦がついたため息は、先ほどよりも遥かに大きなものであった。

 

 

 恋恋高校野球同好会の練習は基本的に放課後の三時間程度と、日・祝日の昼から夜にかけて行われているが、時折休みの日がちらほらと現れるようになっていた。桐島自身毎週日曜日を練習に割くのは体力的にも少々苦しいと感じていたということもあるが、何よりも勉強をする時間がなかったというのが一番の理由であった。恋恋高校の授業は近隣でもかなり進んでいる方なので、少しでも気を抜くとあっという間に追い抜かれてしまう。事実、はるかを除いた部員の殆どが入学当初よりも成績が下がっていた。その中には当然足立も含まれており、夏休み前に行われた前期試験では学年十二番と高い成績を保ってはいたものの入学試験に比べれば十番ほど下がっていた。しかし足立はまだマシなほうで、都川や酒井など勉強が得意ではない人間はより顕著に成果が現れている。都川に至っては既の所で赤点を免れたという始末だったし、あおいもあまり芳しくない成績であった。
 とはいえ日曜日の半日練習は重要だ。桐島は苦肉の策で一ヶ月に四回ある日曜日のうち、三回は練習に取り組み、一日を休みにすることにした。それが基本的に四週目に訪れ、二週目の水曜日や木曜日あたりも休みにすることで調整を取っている。

 

 白川麻美は教科書を鞄の中に仕舞いながら、級友である早川あおいに視線を向けた。
「うん? どうしたの、白川さん」
「あぁ、いや」
 麻美の目線は、あおいの鞄に向けられていた。そこにはあまり見覚えの無いキーホルダーがかかっており、それが珍しかったので思わず目を奪われてしまったのだ。失礼ではあるがあおいらしくないな、とも思ってしまっている。
「珍しいものをしていると思ってね」
「これ? えへへ、足立くんに貰ったんだ」
「へえ、シンゴが」
「うん。そんなに高いものじゃないけどね」
 だからこそあおいは受け取ったのだろう。麻美はそんな風に解釈した。
「そういえば早川さん、シンゴとデートをしたんだっけ」
「えぇっ? なんで知ってるの?」
「くく。都川くんが不満げに零していたのを耳にしてね」
 実際あおいと足立がデートらしきことをしたのは確かなのだが、その実は悲惨なものであった。ろくに時間も経っていないうちに不良にからまれ、足立はそれこそ袋叩きの目に遭ったのだから。しかし、それを差っぴいても都川にとっては面白くないことだったのだろう。
「どこに出かけたんだい」
「えっと」
 と前置きを置いて、あおいは一つの駅の名前を口にした。なるほど、無難な選択だ、と麻美は思った。それからしばらくあおいに足立と行った『デート』の詳細を聞いたあと、麻美は思い出したようにあおいに告げる。
「そうだ。野球同好会の練習はまだなのかな」
「うん、大丈夫。今日は休みだから」
「あぁ、そうなんだ」
「だから今日ははるかと出かけることになってるんだ。あ、そうだ。白川さんも一緒に行かない?」
 あおいの問いかけに麻美は少しだけ考える素振りを見せて、その後困ったように笑って見せた。
「ごめん。今日は遠慮しておくよ」
 あおいはしゅんとしたような表情になったが、すぐにそれを打ち消すかのような笑顔を携えてみせた。
「ううん、じゃあ、またね」
 元気いっぱい、といった風に手を振りながら教室を後にするあおいの姿を目で追い、麻美も続いてゆっくりと立ち上がった。
 別にわざわざ断るほどの理由か、まったく。
 麻美は心の中でそんなことを呟いた。誰にも聞かれないようにして。

 

 

 それから麻美が向かったのは、先ほど自分が『無難だな』と感じた繁華街であった。平日の夕暮れ時であるが、流石に人が多い。麻美は波のようにやってくる人の群れにぶつからないよう注意をしながら真っ直ぐに歩いていた。ここに来た時点から向かう場所は決まっていたのだ。
 目当てのショーケースはすぐに見つかった。長年の付き合いのせいか、足立の思考は手に取るようにわかる。彼が何を目指し、何を感じ、何を思ってあおいをここに連れてきたのか。麻美は無意識にそんなことに考えを巡らせていることに気づいて、慌ててかぶりを振った。
 女々しいと笑われるだろうか。それとも気持ちが悪いと嫌悪されるだろうか。麻美はそんなことを思って独り苦笑した。百貨店とはいえ、内装はかなり若者向けのつくりとなっている。なにやら如何わしい外国の菓子などを売っている店舗もあれば、ファッションショップも存在する。足立があおいをここに連れてきたと言うのもなんとなくではあるが納得出来るというものだ。
 麻美はショーケースの中のキーホルダーに眼を落とし、その後すっと瞼を閉じた。足立とあおいがどんなデートをしたか、など考えることではない。そんなこと、あまりにも野暮というものだ。しかし――。
 もし、相手があおいではなく、自分であったら。
 そんな風に思ってしまうことは、果たして罪なのだろうか。許されることではないのだろうか。
 また以前のように足立の隣に立ちたい。二人でくだらないことを言い合いたい。そんな思いが麻美をこの百貨店へと連れてきた。今、麻美は紛れも無く足立の恋人なのであった。それは――誰にもわからない、麻美の心の中だけでの出来事ではあったが。
 時折目に入るカップルに少しだけ心が痛くなる。女一人で来るにはあまりにも場違いな場所であった。麻美の衝動が、今、自尊心に負けつつあった。麻美は手に取った青い子猫のキーホルダーをケースに戻し、逃げるように出口へと走った。
 誰かが、自分の手を引っ張ってくれることを願いながら。

 

 夢から覚める瞬間はいつも苦しい現実感といえる気持ちがのしかかり、それはまるで凶器を押し付けられているような不快な気分であった。見ていた夢が幸福であればあるほど現実感は比例して鋭く、凶暴性を露にする。麻美は一人、どうしようもない空虚な気持ちで立ち尽くしていた。流れてゆく人をぼんやりと眺めながら、幸せだった頃を思い出す。もう手の届かない、あまりに幸福だったあの頃。
 現実から逃げていても仕方が無い。麻美はひどく重くなった足をなんとか動かし、駅に向かって歩き出した。早くこの街から逃げ出したかった。あおいと足立の思い出の香るこの街から、少しでも早く。
「こんにちはー、ねえねえ、キミ今なにしてんの?」
 はあ、と気持ちが一気に沈んでいくのが自分でもわかった。街に出かけると必ず一度は出くわす、ストリートナンパだ。麻美はどうもナンパされやすい。中学三年のとき、足立が待ち合わせ時間に一時間ほど遅れてやってきたときなど、その間だけで五人程度の男から声を掛けられてすっかり辟易してしまった。
 何もこんな気分のときに声をかけないで欲しい。いつもなら無視して歩き去っていくところだが、今日は機嫌が悪い。麻美は睨みつけてやるつもりで振り向いたのだが、それが思わぬ結果を招いてしまった。
 麻美の顔を見た瞬間、男は何度も練習したであろう完璧な作り笑いをそのまま凍りつかせ、彼女の顔をじっと見つめていた。不自然なほどの笑顔をそのままに、男は1,2秒ほど固まっていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「えーっと、ゴメン、人違いだ」
 いくら気が動転していたとはいえ、その言い訳はあまりにも不自然だ。麻美は少しだけ口元をゆがめた後、呆れたように眉をひそめる。
「いつもこんなことをしているのかな、都川くんは」
 ――ナンパ男の正体は、恋恋高校の同級生である都川光一であった。

 

 

 

 

 

>>#11.忘却の君


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