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#11.忘却の君

 

「というわけで、サムライアリは進化させたりしちゃダメなんだな」
 都川光一はコーヒーカップを右手に持ちながら、得意げな顔でそう話した。駅前で麻美に声をかけたときは思い出すだけで笑いがこみ上げてきそうなほどの落ち込みようであったが、いつの間にやらすっかり立ち直っている。それどころか、麻美を相手に『ナンパ』を成功させているつもりなのかもしれない。
 都川に話しかけられたとき、麻美はどうしようと強く迷っていた。正直気分は憂鬱だったし、早く帰りたいとも思っていたのだが、人間の心というのは実に不思議なものである。都川の顔を見た途端、何故だか麻美の中で安堵の気持ちが沸いてきたのだ。独りであることによる不安からの開放感。そんな折から麻美は思わず都川に話しかけてしまっていた。
「君はナンパをしておいて、女性を放っておくのかい」
 もうほとんど後ろを向いていた都川はどきりとした様子で麻美の方を振り返った。
「せっかくだから、お茶でもご馳走してもらいたいな」

 

 そういった経緯で、二人は今駅からさほど離れていない喫茶店にいた。少し狭い店内はともすると聞こえなくなりそうなほどの音量でジャズ音楽が流れており、落ち着いたムードだ。西洋風でやや暗い色で統一された店内は少しだけ大人びた雰囲気を醸し出している。なるほどデートにはぴったりの店だ。その辺りから都川のナンパ経験の深さがうかがい知れる。
「にしても驚いたぜ。まさか麻美ちゃんが着いてきてくれるとは思わなかったなあ」
 次々と会話を投げかける都川を見ながら、麻美はクク、と喉の奥で笑う。
「うん、たまにはいいかなと思ったんだ。都川くんとは同じクラスだけれど、あまり話をしたことはなかったしね」
 麻美の言葉に、都川は思いついたように頷く。その仕草がひどくわざとらしく見えて、思わず麻美は吹き出しそうになった。
「言われてみればそうだな。麻美ちゃん、オレのこと嫌いなの?」
「別にそんなことはないよ。でもいい機会だしね、色々聞きたいと思って」
 麻美はアイスティーで軽く唇をぬらし、都川の目線をまっすぐに見つめた。
「都川くんは中学野球で有名なんだっけ?」
「んー、そうかもな。自分で言うのもこっぱずかしいんだけど、地元じゃそれなりにな。ていうか麻美ちゃん、オレの名前知らなかったの?」
「それがね、私は関西出身なんだよ」
 都川は思わず沈黙し、大きく目を見開いていた。さきほどの大げさな仕草ではなく、リアルな反応。どうやら本当に驚いたらしく、都川は次の言葉が出ないようであった。もともと麻美は饒舌なほうではないし、クラスでも中の良い友人というのはあまりいなかった。そのため麻美が関西出身であることを知る人物は、今のところ足立くらいしかいない。
 そう。麻美は関西出身である。つまり麻美と中学時代同窓生であった足立も必然的に同じく関西出身ということになる。さすがの都川も麻美と足立が中学時代の同級生であるということは知っていたらしく(これは足立が一度あおいに話していたことから都川に及んだものだ)、ずいぶんと長い間黙り込んで何事かを考えている素振りを見せた。
「てことは足立も関西人?」
「そういうことになるね。二人とも大阪の中学に通っていたから」
「その割には標準語を喋るじゃないか」
 クク、と麻美が静かに笑う。その何度も目にした猫のような鳴き声が、都川には気味が悪いほど自嘲的に思えた。
 麻美は自分の言葉にコンプレックスを覚えている。そしてそれは恐らく、足立もなのだろう。二人は標準語で喋ることを得意としない。
 麻美も足立もかなりの愛読家であり、お互い読んだ本を交換し合ったことも一度や二度ではない。もともと関西でいたときも二人は標準語でよく喋っていたのだが、その口調は自分たちの大好きな『本』にひどく影響されてしまったのだ。皮肉なことに。
 麻美は中性的な言葉に、そして足立は無感動な言葉を喋るようになった。確かこれは、足立と付き合い始めた辺りからの癖だったと認識している。
「まあね。練習したんだよ」
「ふうん。無理に標準語を喋ることもねえと思うけどな」
「郷に入っては郷に従え、だよ。ところで都川くん」
「うん?」
「“市立篠原東中学校”って、知ってるかい?」
 ――そう聞いた麻美の目線は、突き刺さるような鋭さを持っていた。

 

 

「我ながら無用心だったと思っているわ」
 そう言った理香の声は、珍しく落ち込んでいるように思えた。足立はグレーのTシャツを着込んだ上半身の上からカッターシャツを着込むと、はぁ、と興味なさげに答える。

 

―― 一文字君に、見つけられたわよ。

 

 先ほど理香から聴いた言葉が頭の中をぐるぐると回っている。以前あおいを助けたさいにここ保健室へと転がり込み、理香の世話になったときのことだ。あの時明彦は足立や直人に目もくれず、この保健室へと留まることを要求した。その行動自体に違和感を覚えてはいたのだが、足立はさして気にも留めなかった。が、それが大きな失敗だと気づかされた。
「そうですか」
 ようやく足立は搾り出したように返事をする。
「僕と加藤先生の関係に気づいたと、そう言ったのですか」
 足立の問いかけに、理香はええ、と返事をした。
「恐ろしい子ね。あれを見ただけで気づくなんて」
「普通は気づきませんよ。一文字明彦だからこそわかった。だから――加藤先生に落ち度はないですよ」
 足立はそう言いながら、本棚の奥から一冊の書物を引き出した。あの日、明彦が手に取ったそれとまったく同じものである。

 

『市立篠原東中学校 卒業アルバム』

 

 本の表紙には大きな字体でそう書かれていた。足立は卒業アルバムをぱらぱらとめくってゆく。やがて頁を捲る手を止め、じっとアルバムに目を落とし始めた。その時、彼の唇はうっすらと微笑を浮かべていることに理香は気づいた。
 あの微笑は――どういう表情なのだろう? 感動? 驚嘆? それとも、自嘲?
 今の理香には理解できなかった。――いや、足立の心中を完璧に察することの出来る人間なんて、きっといやしないのだ。
 足立が止めた頁はとある一クラスのものであった。足立自身、非常に思い入れのあるクラスであり、端には白川麻美の名前が書かれている。
 しかし、このアルバムのどこにも理香の名前もなかった。彼女は養護教諭の資格を有してから、高校にしか勤めていない。中学校で保険医をしていたことがないのだ。加藤理香の名前もないこのアルバムを見て、明彦は足立と理香の関係を見抜いた。そのことに足立は形容しがたい感情を抱いていた。それは感動でもあるし、恐れでもあった。
 きっと、彼はこれを見つけたんだな。
 そう言って、足立は一人の生徒の顔をじっと見ていた。麻美と同じクラスの男子生徒だった。金色に染めた髪を後ろで一つに縛った長髪は少しだけ明彦を思わせる。細い眉に鋭い視線。着崩した制服から、どう見ても“不良”の類である。その生徒の写真に――理香は赤いペンで丸く囲んでいたのだ。足立はそっと彼の名前に目を落とす。

 

『出席番号 21番 和久井――』

 

 

「篠原東? ああ、知ってるぜ」
 都川はコーヒーカップを皿に置き、事も無げにそう答えた。その時、麻美は自分の胸がどきりと大きくなるのを感じ取る。
 やっぱり、知っていたか。
 都川ほどの選手ならば、知っていて当然かもしれない。麻美の出身である篠原東中学は、中学野球では全国的に高名な学校であった。それも当時の怪物エースのおかげであるわけだが、彼の名前はかなりの範囲で知れ渡っていたことだろう。それほどの実力がある選手だったし、だからこそプロスカウトの影山が今でも探し回っているのだ。
「全中大会で近畿代表だったもんな。確か140km近い速球を投げるエースがいたっけ」
「うん、そうなんだ。さすがに都川くんともなると知っていたか」
「まあな。オレも桐島も大会で名前が売れたぐらいだし。えーっと、そうだな、ちょっと待ってくれ」
 そう言って都川は右手の人差し指をこめかみ辺りに当てると目を閉じ、考え込むような素振りを見せた。時折うーん、と唸る都川を、麻美はまた刺すような目線で見つめた――睨んだ。

 

 ――やめて。
 ――思い出さないで。
 ――彼を思い出さないで……。

 

 麻美はそんなことをずっと考えていた。中学時代、その卓越した才能のおかげで様々な高校から呼び声がかかった彼。彼のことを知る人間なんて、いないでいてほしい。それが麻美の切実で、真剣な思いであった。

 

……麻美

 

 プロ入り確実。そんな言葉を何度耳にしたことか。彼の重く速い速球はまるで大砲の砲弾のようと称され、切れ味抜群で鋭く変化するフォークボールは見るものを魅了した。彼の球にバットを当てられる選手なんて、どの中学にもいなかった。

 

……おれはどうすりゃァいい?

 

 そんな風な言葉を聞いたのはいつの頃だったか。いつも気丈で、同い年に見えないほど大人びていた彼が見せた一度だけの弱音だった。彼の深い悲しみを救えなかった過去がリアルに脳裏に蘇る。

 

……もう無理だろうよ


……もうおれァ、イカれちまッたんだ

 

 異様な形に変形した車両。地中をのた打つ畸形の土竜。もしくは、太陽を浴びて狂ってしまった夜しか生きられない大蛇。そんな不気味な生き物が悲鳴を上げながら岩を穿ち、土砂を巻き上げる。

 

……麻美


……麻美、麻美ィ

 

 黄色いヘルメットをかぶった人間がいた。人と思えぬ変形した生き物が横たわっていた。黒と黄のテープで囲まれた場所に雄たけびをあげながら進もうとするものがいた。歯を食いしばりながらそれを止めるものがいた。

 

……おれは、おれは一体


……もうおれァ、イカれちまッたんだ

 

 彼の話は今でも脳裏に焼きついて離れない。今まで創作物の中でしか見たことのなかったようなまるで現実感のない御話。
 壊れたのは体か、心か。そして彼を救えなかった自分の心も壊れそうになった。あれほど――なのに――救えなかった――。

 

 

「お、そうだ。思い出した」
 都川の能天気な声がきっかけとなり、麻美は唐突に現実に引き戻された。都川はといえば相変わらずにこにこと笑っており、麻美の変化になど微塵も気づいていない様子である。ただ思い出せたことを得意げな態度で見せ、言葉を発したくてたまらないという風だった。
「140km近い速球と、切れのあるスライダーとフォークを武器にした近畿地区で一番の左腕投手だったな。その名前が――」
 そこで都川は一拍置いて見せた。これは相手から興味をひきつけ、自分を魅力的に見せる彼なりの会話術なのだろう。その気遣いが今の麻美を残酷に傷つけたことに、都川は気づかない。
「うん、聞かせてよ」
 都川の次の言葉はわかっていた。自分の一番聞きたくない名前。願わくば一生忘れたかった彼の名前。それを、次の瞬間都川は話すのだろう――。

 

「大阪代表篠原東中の――和久井投手だ」

 

 

 和久井の写真を見ながら、足立はしばらくの間じっと黙り込んだ。
 明彦はこの写真を見つけ、何を思ったのだろう。明彦のことだ。きっと和久井が怪物エースであったことなど当たり前のように記憶していただろう。しかし、そこから理香に結びつけ、足立に結びつけるまでの経緯が足立には信じられなかった。幾重の理論展開をしていっても、二人の関係など到底見抜けるものではない。
 推理力――か。足立は消え入りそうなほど小さい声でそうひとりごちた。
 もう“壊れ”てしまったかつてのエース。何故彼に印がつけられているのか。そんな風にして明彦は次々に考えを馳せていったのだろう。それにしても――信じられない。そして、恐ろしい。
「誰にも気づかれない自信はあったんですけどね」
 そういって卒業アルバムを閉じ、理香のほうへと向きなおす。足立の顔はいくらか晴れ晴れとしていた。納得したのか。諦めてしまったのか。やっぱり理香には理解できなかった。
「そうね。一文字君がこれほど優秀な頭脳を持っているなんて、思いもしなかったわ」
「まあ気づかれてしまったものは仕方がない。そう深く考え込まないことですよね」
 足立は制服の乱れを直しながら、目の前にあった丸椅子に座り込む。その時、一瞬だけ彼の表情に陰りが生まれたように見えた。
「あのアルバム、確か和久井君の写真に赤丸をつけていたわね」
「ええ」
「我ながら迂闊だったわ」
「仕方ないでしょう。貴女にとって和久井という人間は」
 そこまで言って、足立は不意に黙り込んだ。次に出す言葉があまりにも無粋で、失礼であると判断したからだった。足立は少しだけ考えた後、苦笑いを浮かべながら付け足した。
「貴重な人材だったんですから」
 適切ではないが、少なくとも嘘ではなかった。そう。確かに理香にとって和久井投手は貴重な人材だったのだろう。彼女が今まで見たこともなかったような人間。ある意味では深く捜し求めていた人間であったはずだ。なのに――。
 不意に昔の光景が頭を過ぎる。14,5歳の人間にとって、将来を約束されていた野球選手にとって、なんと残酷な運命もあったものだ。今思えばあの時期は和久井にとって人生の絶頂であったのだろう。それなのに、ひょんなことから根底からそれが崩されていった。そのショックは、きっと他人には計り知れないほどのものがあったのだろう。

 

 だからこそ、和久井は壊れてしまった。
 そして、麻美が深く傷ついた。

 

 当時野球部のマネージャーであった麻美の心は、突然訪れたエースの失脚に、どれほどのショックを抱いたことか。そして、和久井を支えられなかった自分をどれほど責めたことか。足立はそんな麻美を見るのが辛かった。だからこそ――。

 

 もう、今となってはどうしようもないことだ。足立にも、麻美にも。だからこそ二人は“今”を享受しようとしている。麻美は足立の無二の親友として、足立は野球部の人間として――ここ恋恋高校で再起を計ろうとしていたのだ。
 明彦の訪問によって、それが覆られそうになっている。過去に囚われてはいけない。そんなことはわかっているはずだったのに、今でも脳裏に蘇る苦痛の過去。それが足立を縛った。麻美を縛り、理香をも縛った。
「大丈夫? 足立くん」
「ええ。なんとかなると思います」
 足立は簡単に答えると、すっくと立ち上がった。表情は明るいが、顔色がひどく悪い。まるで血の気が通っていない死人のようは肌が、理香の不安を煽る。
「足立くん」
「失礼します、加藤先生」
 挨拶も簡単に、足立は保健室のドアを乱暴に開いて廊下へ飛び出した。これから何処に向かうかなどわからない。ただ、これ以上理香と話をしていたくなかったのだ。
 足立は逃げたのだ。自らの過去から脱却したいがために、遮二無二、なりふり構わず逃げ出した。新たに生きていくと、すなわち“忘れ去る”と決めたのだから。逃げ切って見せると決めたのだから。
 人通りの少ない廊下を走りぬけ、グラウンドに出たとき急に肌寒さを感じた。その時になってようやく足立は保健室に学ランを忘れたことに気づいたのだが、すぐさま取りにいく勇気がもてなかった。

 

 

 辺りはすっかり暗くなっていた。それもそのはず、今はもう21時をまわろうかという時間帯になっている。理香との“日課”に普段より時間がかかってしまったからか、それとも予期せぬ過去の思い出話に時間をとられてしまったからだろうか。
 あれはまさに不意打ちであった。
 脱却したと思っていた過去が今でも自分を縛り付けていることが不甲斐なくて、情けなくて、足立は少なくないショックを抱いていた。だからこそ逃げ出し、それこそ何処へいくともなく走り出した。目的地などなかった。ただ、過去の幻影から逃げ出したかっただけ。
 ここパワフルバッティングセンターへ足が向いていたのは、なんの暗示なのだろうか。確かにここは足立にとって思い入れの深い場所ではある。あおい――自分が心を奪われた相手、そして野球同好会設立メンバーでもある彼女と初めて会った場所である。それでも意識して来たわけではなかったし、もちろん何か魂胆があったわけでもなかった。
 だから、早川あおいと顔を合わせたのは本当に偶然であったのだ。
「あれっ、足立くん?」
 あおいは制服姿――冬服だ。白いカッターシャツの上に濃紺のカーディガンを羽織っており、以前と同じくストラック・アウトマシンの前に立っていた。足立はしばらく呆けていたが、すぐさま微笑を浮かべて返事をする。
「やあ、あおいちゃん。どうしたんだい、こんな夜遅くに」
「はるかと遊びに行っててね。駅まで送ったんだけど、そのまま帰るのがなんだか勿体無いなって思って」
 そう言いながら、あおいは右手でおさげを自分の肩の前まで持っていき、さわさわといじる素振りを見せた。
「今日は練習もなかったし、せっかくだからボールでも投げようかなって」
「相変わらず熱心だなあ」
 足立はふとマシンの成績を見つめた。球数は0となっており、倒れた的は五枚だった。中々の好成績である。以前景品として書かれていた球界サバイバルバイブルは残っているが、野球島は上からペンで線が引かれていた。ということは、記録を達成した者が出たということだろう。
「でも、女の子がこんな夜遅くに一人でいるのは関心しないね」
「大丈夫だよ、心配性だなあ。足立くんは」
 あおいがそういってちろりと舌を出す。
「まぁ、せっかくだしね。駅まで送っていくよ。あおいちゃん、もう終わりかい?」
「うん。そうだけど、足立くんはやっていかないの?」
「え?」
「だって、バッティングセンターに来たんだから」
「あぁ、そのつもりだったんだけど、なんか気がそがれちゃって」
「良い打者っていうのはバットを振った数で決まるんだよ? ――あ、足立くんはプロを目指したりしてなかったっけ」
 あおいの言葉に、足立は思わずふっと自嘲気味に笑った。
「そうだね。でも試合で恥をかかない程度には実力をつけなきゃと思うけど」
「うん。来年、だけどね」
「ああ。来年になればきっと部活にもなるし、試合も出来る」
「前向きにいかなきゃね」
 そういってあおいは傍に備え付けられていたベンチのほうへと足を向けた。ベンチの背もたれ部分にマフラーが無造作に置かれている。薄いピンク色のチェック地のものであった。あおいはそれを首にふわりと巻きつけると、足立の隣へと走った。
「じゃ、帰ろっか。足立くん」
 足立はうん、と軽く返事をして、あおいと並びながらバッティングセンターの出口へと向かった。
 ずいぶんと冷え込んできたものだ。季節の移り変わりというのは本当に唐突に訪れるものだ、と足立は思っていた。ついこの間まではうだるような暑さに気分を悪くしていたというのに、今では上着がなければ外にも出歩きたくないという始末だ。自分の学ランを置きっぱなしにしていたことを、足立は少しだけ後悔した。
「そういえば足立くん、上着はどうしたの?」
 あおいが当然の質問を投げかける。この寒さの中、あおいは完全に防寒の用意が整っているが、足立はTシャツの上に薄いカッターシャツしか着ていないのだから。
「ああ――学校に忘れてきちゃってね」
「風邪ひいちゃうよ?」
「家まではそんなに遠くないから、大丈夫さ」
「ふうん……あっ、そうだ」
 そう言うとあおいは自分の首にかかっていたマフラーを解くと、にっこりと笑って見せた。ぼんやりと自分を見ている足立を気にもかけず、あおいは軽くジャンプをするようにしてそれを足立の首にするりと巻きつけた。
「貸してあげる。暖かいでしょ、それ」
 自分の首の周りに巻きついたマフラーを、足立は右手で軽く触ってみた。マフラーは毛糸のイメージが強かったが、あおいのものはつるつるとした手触りであった。そのくせ風は完全にシャット・アウトされているのか、先ほどと比べて抜群に暖かくなった。
 触った途端、自分の首の辺りからふわりと鼻をくすぐりたくなるような優しい匂いが届く。それは香水や整髪料のような人工的なものではなく……例えるならば、何か甘い南国の果実のような匂いであった。
 あおいの匂いが届くマフラー。それが足立に及ぼした影響は少なくはなく、あおいに置いていかれていることにしばらく気がつかなかったほどであった。ふと意識を戻すとあおいは大分先を進んでいる。慌てて追いかけようと走り出そうとした瞬間、あおいはくるりと振り向いた。その時の彼女は何故だか嬉しそうな笑みを浮かべていた。
「足立くん、今日はやっぱり寒いね」
「女の子からマフラーを取り上げてしまった身分としては、返事に困るよ」
 足立の軽口にもそろそろ慣れたころなのか、あおいの表情は変わらず見ているほうもつられてしまいそうなほど幸福に見える笑顔を浮かべている。
 君は――生意気な仔猫。ぼくの手には届かない場所にいて、それでいてなんて愛おしいことだろう。追いかけても届くはずはないその目標に向かって足立は早足で向かい始めた。そのときの足取りは、きっと保健室を出たときの冷え込んだ気持ちとはまったく違うものであったのだろう。

 

 

 

 

 

>>#12.現在、過去、そして未来


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