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#12.現在、過去、そして未来

 

 その日足立が目を覚ましたのは十時を少し回った頃であった。何故日本人は年末になるとバカバカと酒を飲みたがるのだろうか。まだ十五歳の足立ですらいくらかの酒を飲まされ、すっかりふらふらになってしまった。目がはれぼったく、こめかみの辺りがずきずきと痛む。二日酔いというほどでもないが、体が酒に対して大きく拒否反応を示しているのがわかった。足立はベッドから起き上がり、軽く伸びをしてから部屋を出た。階段を下りて台所へと寄り、冷蔵庫の中からミネラルウォーターを取り出して一気に飲んだ。それでも昨夜から残っているひどい口渇感は癒されなかった。
 朝食の準備をしようと棚を覗いくと、そこに食パンを見つけた。賞味期限を見ることもせずトースターに放り込むと、付け合せにタマゴ料理でも作ろうかと冷蔵庫を開ける。正月の朝とはいえ自分の朝食くらい自分で作らなければいけない。
「あれ、真吾君起きてたの?」
 足立は振り向いて、ああ。と答えた。
「うん、おはよう」
 足立美和はまだ朝だというのにすっかり外出着に着替えを済ませていた。薄く化粧を施して綺麗に梳かれた髪をなびかせながら、足立に向かって話しかける美和の横顔を、足立はぼんやりと眺める。もう四十は軽く過ぎているはずなのだが、体系も崩れていないし肌だって綺麗で、とても子持ちの母親には見えないほどの若さだ。
「ふうん。真吾君が起きてるなら、もう少し後にしたらよかったかな」
「なにかあったの」
「なにかって。今日は元旦でしょう。お父さんと初詣に行こうと思ってるの」
「行ってきたらいいさ。僕は一人で留守番しているから」
 ちらとトースターのほうを見て足立が言う。この調子では付け合わせを作る時間がなく、焼きたてを食べたければ単品で食べる羽目になりそうだ。
「そういうわけにはいかないの。真吾君はいいけど、さくらもいるでしょ」
「相変わらずアマテラスと天岩戸?」
「そうねえ。何であの子あんなになっちゃったのかしら」
「思春期にはいろいろあるさ」
「真吾君は手がかからないけど、さくらにはもうてんてこまいよ」
「だから、年の初めくらいは夫婦水入らずで初詣に行きましょうということか」
「さくらも一緒に来てくれればいいんだけどねえ。家族みんなでいきたいわ」
「そうだね。かといってさくらを置いて僕だけついていくのも妙な話だし」
「ごめんなさいね、真吾君。今日はさくらのこと、お願いしてもいい?」
「うん。楽しんでおいでよ」
 そういったところで、オーブンレンジがチン、と音を立てた。それがきっかけとなり、美和はもう一度足立に向かって曖昧に笑って見せると台所から姿を消した。ぱたぱたとスリッパの音を立てながら遠ざかる美和の足音を聞きながら、足立はオーブンレンジのボタンをもう一度押す。
 今日はなんとしてでもスクランブルエッグが食べたい。

 いささか作りすぎた朝食を無理やり腹に詰め込むと、足立は家の中を散策しだした。さくらの部屋をノックして中にいないことを確認してから居間に入る。そこには炬燵のそばでぼんやりしているさくらの姿があった。さくらはグレーのタートルネックに黒のミニスカートを履いており、素足の先を炬燵に入れている。暖房の効いていない部屋にそんな格好でいて寒くないのか、女性は男より寒さに強いのだろうか、と足立は真剣にそんなことを思っていた。
「ミニスカートで膝を立てたらパンツが見えるぞ」
 足立は炬燵にもぐりこんでから、さくらにそう話しかけた。さくらは足立の方へと振り向くと、口を尖らせて首を軽く曲げて見せた。
「おはよう、お兄ちゃん」
「ああ」
「お母さんと会った?」
「ああ。さっき台所で」
 足立はリモコンを拾ってテレビの電源をつけた。画面ではお笑い芸人が振袖を着てなにやらはしゃぎまわっている。
「お父さんとお母さん、初詣に行くんだって」
「日本人はみんな初詣が大好きなんだ」
「お兄ちゃんは行かないの?」
「僕は形式にとらわれない日本人だから」
 つまらないテレビ番組に飽きてきたのか、足立は炬燵から抜け出して本棚をあさりだした。何か本を取り出すでもなく、何かを掴み取るとそれ見てふっと柔らかく笑った。
「なあに、お兄ちゃん? それ、お父さんの煙草だよ」
「知ってる」
 足立は煙草を見てなんとなくため息をつきたいような気分になっていた。もう幼いころから見慣れた、両切りの煙草。こんなものを吸っていたらそのうちぽっくりと死んでしまうのではないかと心配になる。
「お兄ちゃん」
「どうした」
「野球部の練習、楽しい?」
「まあそれなりに」
「友達とか出来たの?」
「まあそれなりに」
「いいよね、お兄ちゃんは」
「いいのかな」
「いいよ。すぐに友達が出来るんだから」
 そういうと、さくらは炬燵から足を抜いて膝を立てた。両膝に顔をうずめて黙り込む。
「ミニスカートで膝を立てたらパンツが見えるっていっただろ」
「エッチ」
「心外だ」
「いいな。お兄ちゃんは友達がすぐ出来て」
 相変わらず顔を埋めたまま、さくらが言う。
「さくらだって出来るさ」
「出来ないよ。友達なんて、どうやって作ったらいいの」
「作ろうと思って作るものじゃないと思うけどな」
「わたしは作りたいよ。作ろうと思わなかったら、出来るはずないんだもん」
「そんなことはないだろ」
「わかんない。私、学校なんて大嫌い」
 そういったきり、さくらは何も言わなくなった。
 さくらは目が大きくて痩せっぽちで、体はとても小さい。小学五年生の冬頃から身長が殆ど伸びなくなったと嘆いていて、今でも身長は142センチほどだ。小柄な麻美と比べてもまだ頭一つ小さい。そのおかげかさくらは同級生からいじめられるようになった。いや、いじめというと大げさなのかもしれないが、とにかく身長のことをからかわれるようになったのだ。言っている本人は遊び半分でも当人にとっては大問題であり、ひどく傷つかされる。中学に入っても身長の話題が出るたびさくらは悲しい思いをしてきた。そのせいなのか、今では学校にほとんど通っていない。
 169センチと高校一年生男子では平均といってもいい身長の足立はそういった事情とは無縁だったので、さくらと話すたびになんとか客観的な意見を言わねばと身構える。そういえば中学生の頃の麻美も、今のさくらと同じくらいの身長だった。それでも麻美は気にする素振りを見せてはいなかったし、それどころか野球部のマネージャーになったり、生徒会に入ったりと精力的に動くクラスの中心人物といってもいいくらいの行動派だった。麻美とさくらの差はなんなのだろうと足立はそんなことを考えていた。
 そんなとき、玄関の方からチャイムの音がした。
 さくらはびっくりしたように体をすくませると、炬燵布団を胸まで引き上げ、すっかり隠れてしまった。足立はさくらに「ちょっと見てくる」と簡単に言うと玄関に足を向けた。
 ドアスコープから外を覗いた瞬間、足立は思わず尻餅をつきそうなほど仰天してしまった。そこに立っていたのは、何故かヘルメットをかぶった麻美であった。一体なんでまた……目の錯覚であればいいのに、とあり得ないことを考えながらドアを開く。
「やあ、シンゴ。あけましておめでとう」
 彼女はやはり麻美であった。足立は右手で頭頂部辺りを触りながらうん、と返事をする。
「あぁ、おめでとう」
「起きたばっかりなのかな? 君にしては珍しい格好だ」
 麻美に言われてようやく気がついた。足立はまだ寝巻き、ジャージ姿のままだった。しかしまあ、今更取り繕ったところで手遅れだ。足立は開き直ったように胸を張ってみせる。
「着替えるのを忘れてただけだよ。それで麻美、何か用事かい」
 足立の質問に、麻美はかぶっているヘルメットを中指でとんとんと叩いてみせた。
「見てよシンゴ、原付を買ったんだ」
 そういった麻美の視線の先には、なるほど確かに薄いブルーの原動機付自転車が停まっている。イタリア語でワインを意味する単語から来るネーミングのそれは、曲線が目立つレトロなデザインで最近人気が出ているものであった。
「ふうん、いつの間に買ったんだ」
「誕生日過ぎてすぐだよ」
「てことは11月か」
 何気なく発した言葉であったはずだが、急に麻美は沈黙した。心なしか目を見開いた様子で足立をじっと見ている。
「ん? どうかした?」
 足立が声をかけると、麻美は慌てたように視線を地面へと向ける。
「あぁ――いや、そう。うん。誕生日が11月だから、その辺りだったかな」
「全然気づかなかったよ」
「学校には乗っていってないからね。それで冬休みに入ったもんだから存分に乗り回してるというわけさ」
「なるほど」
「シンゴ、今年はもう初詣に行った?」
「いや、まだだけど」
「じゃあ一緒に行かないか? いや、原付を連ねてってわけじゃないよ、もちろん」
 そうしたいのは山々だけど、と前置きを置いて足立は玄関の方へと目をやった。自分も初詣に行きたいと思っていたのは事実ではあるが、さすがにさくらを一人家に置いていくわけにはいかない。
「ぼくが出かけると、妹が一人になってしまう」
「え? シンゴ、君、妹なんていたっけ?」
「あぁ」
 すると麻美はふん……と鼻を鳴らし、大げさな身振りでしきりに頷いて見せた。
「なるほど、そうか。ふんふん。それは大きな問題だね」
「僕も元旦に家の中にいる趣味はないんだけど」
「シンゴの意見はようくわかるよ。じゃあさ、こういうのはどうかな」
 そう言うと麻美はヘルメットを外し、それを両手で持った。ちょうど子どもがボール遊びをしているときのような格好だな、と口に出しそうになるのを慌てて堪える。
 ヘルメットを外すと麻美の体系の小ささが余計強調された気がする。もともとヒールの高い靴は履かない主義なので、足立と比べると20センチは違う。こうして相対しているとまるで中学生か、下手をしたら小学生にも見えてくる。
 眼鏡の奥で隠れた麻美の大きな瞳が小さく潤んで揺れる。小首を傾げ上目遣い気味に見上げる仕草が彼女には嫌味なほど似合っていた。そして、麻美は口に出す。
「シンゴは、私と一緒に出かけたくないの?」
 予想できていたにもかかわらず、足立は思いのほかダメージを受けてしまった。
 これは、反則だ。
 もともと麻美は“美少女”と形容するべき女性である。ただ立っているだけで男が声をかけてくる。恐らくこの幼い体系でなければその数は膨大になり、さらに手の付けられないことになっていただろう。
 足立は頭を軽く掻きながら、内心の動揺を隠すように呟く。
「わかったよ。ちょっと待っててくれ」
 そういって足立は玄関へと体をむきなおし、先ほどまでいた居間へと足を運んだ。居間ではさくらが先ほどとは違う格好で鎮座していた。炬燵布団をかぶり隠れていたはずが、今度は部屋の隅を向いて体育座りをしている。足立が入ってきたことにも気づいているようではあるが、何の反応も見せない。全くこの子は、いつからこんな風になってしまったのだろうか。
「さくら」
 やはり返事はなかった。しかし足立は気にすることなく続ける。
「ぼくの友達が初詣に行こうと誘ってきたよ」
 少しの間を置いて、さくらは口を開く。
「行ってくれば」
 相変わらず向こうを向いたまま、そっけなく答えた。
「そう怒るなよ」
「怒ってなんかないもん」
「じゃあこっちを向けよ」
「勝手じゃないの」
「勝手だな、本当に」
「もう嫌なの」
「なにがさ」
「お兄ちゃんも、お父さんもお母さんも。みんな私を怖がってる」
「そんなことないだろ」
「じゃあなんで一々出かけるくらいで、私の機嫌を伺ってるの?」
 足立は、返事が出来なかった。
「私の反応を見て、行こうか行かないでおこうか決めようとしてたんでしょ」
「それは」
 くるりとさくらが振り向いた。水色のリボンで結ばれたポニーテールがほんの少しだけ揺れる。
「私だってもう中学生なんだよ。一人で留守番くらい出来るよ」
 さくらの声を聞いて足立は、自分が間違いを犯していたような感覚を覚えた。
 さくらは何も変わってなんかいなかった。
 彼女の抱えた悩みや悲しさは足立にはわからない。けれどそれは、さくらの内面を脅かすものではなかった。彼女は彼女なりに成長し、自立しつつある。ただそれを自分や美和は人間一人の問題なのだと理解できず、ただ“子どもの問題”として解決しようとしてはいなかっただろうか?
 足立はふっ、と口元に微笑を浮かべ、さくらを見た。さくらはまっすぐに足立を見つめている。そして彼女も、確かに笑っていた。
「なんて、生意気だったかな」
「いや、そんなことはないさ」
 足立はさくらに近づき膝を曲げて目線を合わせる。左手を彼女の頭に伸ばし、軽く撫でた。中指がポニーテールの根元に当たり、足立の目前でふわりと先端が揺れる。
「悪かったな。子ども扱いして」
「これは子ども扱いじゃないの?」
 さくらが口を尖らせて足立に問うた。
「これは兄妹のスキンシップだ」
 そう言って足立はごしごし、とさくらの頭を強く揺らす。乱れた髪を手櫛で整えながら、さくらがもう、と抗議の意思を示した。けれどその顔つきは先ほどよりも幾らか晴れ晴れとしており、足立はなんとなく心が安らぐ思いがした。
 足立は立ち上がり、自分の部屋へ向かうため居間を出ようとした。なにせまだ寝巻きのままなのだ。さっさと着替えて出なければ麻美が可哀想だ。こんなことなら上がって待ってもらえればよかったな、とそんなことを思いながら足立は部屋へと向かう。
 足立の後姿をさくらはじっと見ていた。振り向くこともせずまっすぐ向かう彼の背中を見つめて、その後つんとした表情に変わってゆく。さくらがぴょんと蛙が跳ぶように跳ね起きたとき、居間のドアが完全に閉まっていった。足立の姿が完全に見えなくなったことを確認してからさくらは、いーっと口を開いて見せた。

 

 

 

 

 それから先、足立はどういう行動をとり、どういう経緯で動き出しただろうか。足立自身その記憶は薄れ、ふわふわとまるでゆっくりと空を飛行しているような気分になっていた。
 視点が飛ぶ。
 そして、行き着いた先は、

 

 

 観客席の男は、ピッチャーマウンドに立つその男に一方ならぬ興味を抱いていた。
 ピッチャーマウンドとは、皆の期待と憧れを一身に背負う独壇場。自分がそこに立つことは敵わず、こうして遠くから羨望のまなざしを送ることしかできなかった。
 篠原東中学校。二年生ピッチャー和久井。
 彼は地元では知らぬものなどいない存在であり、スタアであった。左腕から繰り出される剛速球と、落差のあるフォークボールを武器に、今日も“強豪”豊成学園中等部から10を超える三振を奪っている。
 彼が高校へと進学した暁には、きっと和久井の名は全国的に知られることだろう。観客席の彼は、そのことが楽しみでならなかった。
 楽しみ――そう、そのはずである。楽しみ、としかいえないはずだ。
 男は、誰にも見えないようにそっと右手を握り締める。力はますます入るばかりで、爪が肉に食い込み、血を流すことになろうとも緩まることは一切なかった。

「相手もずいぶん、狼狽していますねえ」
 キャッチャーマスクを額に上げ、男がそんなことを話しかけてきた。彼は自分より一学年上の三年生であるが、そんなことはお構いなしに敬語を使って喋る。まるで深い関わりを拒否しているかのようでもあるが、人のよさそうな顔のおかげかひどく馴染みやすい印象を受けた。
「日下部先輩のリードがいいおかげ、かね?」
 男はそんなことを嘯きながら、左手を握ったり開いたりとせわしなく動かした。日下部、と呼ばれた男はふっと鼻で笑うと、目線をスコアボードに向けた。
 並ぶ、0の字。
 一直線に並んだ0の字は、右端のHというアルファベットの隣にも、自らの存在を誇示するかのよう大げさに張り付いていた。
「中学生活最後の試合で、完全試合が見られそうになるとは思いませんでしたよ」
 日下部と呼ばれた男がはは、と明るく笑う。しかしその後すっと笑みを消し、真顔になって男に話しかける。
「とはいえ、狙ったりはしないでくださいね。そんな慢心が野球にとっては恐ろしい」
「わァってるよ、日下部先輩」
 そういって男はにっと笑って見せた。肩までかかりそうな長い茶髪は秋の風に揺らめき、金色に輝いて見える。髪質といい顔つきといい、まるで女子のようで幼い印象を受けるが、その時の笑顔だけは頼もしい表情であった。
「おれは完全試合なんて興味ねェんだ。ただよう、自分の球に当てられるのだけはイヤだなァ」
「それって結局一緒なんじゃないですか?」
「違うだろぉ、全然」
「前から言おうと思っていましたけど」
 一拍置いて、日下部と呼ばれた男が続ける。
「貴方はやっぱり変わってますよ、和久井君」

 観客席の男はスコアボードと和久井の間でせわしなく目線を移動させた。完全試合か。まったく、和久井という男は本当に底知れない。彼が高校に進学し、そしてプロに入ったりなんかしてしまえば、日本の野球界は一体どうなってしまうのだろうか。そんなことを考えてしまうのは気が早いと分かりながら、男はやはり夢想してしまう。それほどの魅力が和久井にはあったし、ひどく期待してしまいそうな何かも持っていた。
 ただ、男は一つ気がかりなことがあった。
 それは、和久井には隠していることがある、ということである。
 男は和久井に直接話を聞いたわけではない。しかしそれでも男は確信していた。その“隠し事”について気づいている人間は、この球場に果たして何人いる? 相手チームの人間などは思いも寄らぬことであろう。観客もそうだ。では、監督はどうだ? これも考えられないだろう。知っていれば――いや、それは言うまい。同じ理由でチームメイト……そう、和久井の女房役である日下部選手ですら気づいていないだろう。もし気づいているとすれば――
 白川麻美。
 マネージャーの彼女くらいであろうか。彼女は気づいているのか? いないのか? そして気づいているのならば何故……。
 男は気づかなかった。何故、自分は突然こんなことを思案しはじめてしまったのだろうか。それは恐らく、虫の知らせというやつだったのであろうか。科学的には存在されないとされる第六感。男は、和久井の隠し事が最悪の形で露呈することを予感していたのかもしれない。
 マウンドには和久井が立っている。バッターボックスには豊成学園の四番バッターが立っている。9回裏。1ストライク。ノーボール。ノーアウト。
 和久井が振りかぶった。
 普段の和久井の大きな投球モーションがその瞬間、男には歪に見えた。
 目の前の風景が歪む。自分が何を予知したのかがはっきりと頭の中に流れ込む。和久井の輝かしい未来。それを楽しみに待ちながら、なんの行動も起こさなかった自分がいた。そして何も知らないまま、いや、知っていたからこそ振りかぶってしまった ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 和久井がいた。
 男は突然立ち上がった。周りにいた観客が何事かと男の方を見る。男の顔面は蒼白になっていた。
「駄目だ! 和久井くん、投げてはいけない!」

 

 

 

「シンゴってば!」
「うわぁっ」
 自分を呼ぶ声に、足立は唐突に覚醒させられた。目の前では麻美が怒ったような表情で自分を覗き込んでいる。周りを見回す。ここは……境内。おや、いつの間に神社まで辿り着いたのだろうか。
「何をぼうっとしてるの? ほら、お賽銭入れたんだから、お願いしたらどうだい」
「あぁ、いや、うん。そうだね」
 そうだ。確かに自分は賽銭を投げ入れた。そのときの硬貨は、確か50円玉だったはず。
 足立は両手を合わせて目を瞑る。お願いなど思い浮かばなかったがさして問題はあるまい。すぐに目を開けると足立は麻美の顔をじっと見た。麻美は不思議そうな表情で首をかしげている。
「もう、どうしたっていうんだい」
「いや、あの試合のことを思い出していたよ」
 はっとして麻美の表情が曇ってゆく。麻美にはそれだけで十分に伝わったのだ。

 

 かつて足立が犯してしまった、いくら悔やんでも悔やみきれない失敗。
 かつて麻美が犯してしまった、いくら悔やんでも悔やみきれない失態。
 かつて怪物と呼ばれていた、エースの崩壊の引き金となったあの試合。

 

 それは、彼らが今まで一秒とも忘れたことのなかった試合であった。

「今更だけどね。観客席のあの声が、今でも耳にこびり付いて離れない」
「今更だね」
 麻美の声もいくらか暗い。
「だけど、だからこそ前を向かなくっちゃ。そうだろう、シンゴ」
「うん」
「しっかりしなよ、シンゴ」
 麻美はそういってぷいと後ろを向いてしまった。慌てて後を追おうとしたが、足立ははたと立ち止まる。いまだぼんやりとする頭の中、彼は無意識に財布を取り出していた。二つ折りの安物の革財布。開けば左にカード入れがあり、右に小銭入れがある。その小銭入れの奥にある小さな隙間から、足立は一枚の写真を取り出した。
 早川あおいの写真である。
 野球同好会が設立したときに桐島と都川との四人で写した記念写真。はにかんだように笑う桐島と、【恋恋高校野球同好会】と書かれた手書きのプラカードをさも自分の手柄のように持つ都川。そして、ガッツポーズのように拳を向けたあおいと、並んで立つ足立。
 足立はその中からあおいの写真だけを切り出し、財布に入れている。
 前を歩いていく麻美の後姿を見て、あおいの写真に目を向ける。自分の進むべき道を確認するために。
「――ここ恋恋高校でこそ、キミを支えられるんだ」

 足立は、誰に言うともなくそう呟いた。

 振り返った麻美のいぶかしむような目線が何故か今の自分には暖かい。麻美の隣に向かって、足立は足早に境内を後にした。
 突然に訪れた白昼夢は冬の風に遮られて消える。進級の足音とともに、真っ青な空に向かってふわふわと雲散霧消してゆくイメージが、足立の目にははっきりと映っていた。

 

 

 

 

 

『この右腕が千切れても』 第一部終了

 

 

〜幕間〜


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