#3.困っちゃうんだよなぁ。

 

 恋恋高校の朝は早い。至るところに植えられた観葉植物の剪定業者。共学になったための校舎の改築工事業者や、果ては女子高だった時代の名残である警備員など。まだ登校時間も程遠いというのに、幾つかの人影が見える。そんな中、二人の生徒らしき人物が恋恋高校の校門をくぐっていた。一人は男子生徒、一人は女子生徒のようだ。
「なんだよ、こんな朝っぱらから」
 男子生徒、酒井はまだ眠り足りないのか先ほどからひっきりなしに生あくびをかみ殺しながら、相手――七瀬はるかに向かってそう話しかけた。
「グラウンドの整備はマネージャーの仕事ですから」
 慣れた様子ではるかがとびきりの笑みを携えて返事をする。そんなはるかを見て、なんだか酒井は彼女の笑みにトラウマを覚えそうだな、と感じていた。今日も「付き合って欲しい」と言われたから渋々承諾したはいいのだが、まさか午前7時に呼び出しを喰らうなんて思っても見なかった。それでも断らずに応じてしまうのは、はるかに対して特別な思いがあるからなのかもしれない。それが恋愛感情なのかそうでないのか、今の酒井にはわからなかった。
 はるかは野球部のマネージャーとしてはまだまだ半人前だ。ルールもまだおぼろげにしか覚えていないし、道具などの整備も細かいところまではわからない。ならばそれを教えなければいけない人間が必要になってくるのだが、何を間違ったのか酒井がその「教育者」という立場になってしまいそうだ。どう考えてもあおいや桐島の方が適任だろうに、と酒井ははるかに見つからないよう小さくため息をつく。
「まずグラウンドの整備の仕方だが――」
 酒井ははるかに一からマネージャーとしての仕事を教えることにした。元々はるかは優秀な方である。入学時の実力テストでは一番という輝かしい成績を誇っていたし、(確か、3番か4番辺りに足立がいたことも記憶している)物覚えもかなり速い。勉強も出来るし、相手の気持ちを察する能力にも長けている。きっと物事に対しての応用力も備わっているだろうから、これからマネージャーとして自分たちが思っていた以上の働きを見せてくれるかもしれない。
 一通りの説明が終わった頃、校門からちらほらと登校する生徒たちの姿が見え始めた。酒井は携帯電話を取り出すと画面を確認する。――07:53――あと30分もすれば朝のホームルームが始まるな、とそんなことを思っていたとき、一人の生徒に目が釘付けられた。
 金髪の綺麗な髪の毛が腰まで伸びており、左右に赤いリボンが結ってある。前髪は綺麗に揃えられており、広い額が見えていた。少し釣り目気味で一見すると少しきつめの外見だが、『美少女』といっても差し支えないほどの容姿である。
 酒井は隣にいるはるかをちらと見て、もう一度その女子生徒を見た。……おれの好みはどっちかっていうとこのコだなあと金髪の女子生徒をぼんやりと見つめていたのだが、その時、その女子生徒がはっとしたようにこちらを見てきた。
 やばっ、見つかった。……と、思ったのだがそうではないらしい。
「あっ、あなたは七瀬はるかっ!?」
 その女子生徒ははるかを見るや否や、ものすごい剣幕でそう言い寄ってきた。はるかはというとどういうことかわからないらしく、やはり怯えたようにおどおどとしている。
「え、えぇっと」
「わたくしはあのときの屈辱を忘れていませんよ!」
「あの、どちら様ですか?」 
 ――時間が、止まった。

 

 キーーーーッ! と歯を食いしばりながら、今にも掴みかかりかねない勢いで女子生徒ははるかを睨みつけている。酒井はずいぶんと苦労してその女子生徒を抑えることが出来た。女子生徒は酒井に羽交い絞めにされながらそれでもはぁはぁと息を荒げ、噛み付きそうな視線ではるかを見ていた。
「こ、このわたくしをご存じないと?! 何たる屈辱……! 入学時の実力テストで学年2番だった倉橋彩乃(くらはし あやの)よっ! 貴女さえいなければ学年トップだったのに……」
「えっ……」
「2番! イヤな言葉ですわっ! よくもわたくしのプライドを傷つけてくださいましたわね!」
「そ、そんなこと言われても……」
 頭を抱え苦悩する彩乃を見て、酒井は些細な緊張を感じていた。なんだかこのコは危ないものを感じる。あぁ、さっき好みだといったのを取り消そうかなあとそんなことを思っていた。
「それでわたくしは調べ上げましたわ。貴女が野球同好会のマネージャーをやっているということも」
 そこまで言うと、彩乃は勝ち誇ったような笑みを浮かべて見せた。
「わたくしは理事長の孫ですのよ。わたくしがオネダリすればこんな同好会なんか一ひねりなんですから」
「ちょっと待った」
 酒井が二人の間に割って入る。出来れば傍観者を決め込んでいたかったのだが、どうやらそうもいかないらしい。何よりこれ以上放っておくとはるかが泣き出しそうだ。酒井はふう、とため息をつくとはるかを自分の後ろに移動させた。
「貴方は?」
「野球部のモンだよ。いくらあンたが理事長の孫だっつっても、理由もなく同好会を一コ潰すなんていうわがままはちょっと納得できねえな」
「あら。理由ならありますわ」
 その言葉を言ったとき、彩乃は先ほどよりも少しだけ真剣な表情になった。
「ここ恋恋高校でもっとも優秀な部活動はソフトボール部です。全国大会に出場したこともあるチームですの。それがイキナリ出来た野球部のせいでグラウンドが使用できなくなったりすれば、それは由々しき問題だとは思いませんこと?」
 ソフトボール部――なんだ、そんな理由もあったのか。酒井は特に考えなしに口を挟んだことを少しだけ後悔した。
「それでもな」
「わたくしの個人的感情を抜きにしても野球部は不必要なのです」
 そこまで彩乃が言った時点で、酒井はすっと引き下がった。困惑するはるかに向かって、酒井は困憊しきった表情で言った。
「パス。おれ、このコ苦手だわ」
「えぇっ……」
「桐島とか呼んでなんとかしてもらおうぜ」
 するとはるかが、しゅんとした表情を取って見せた。
「桐島さん、今日は休みなんです」
「は?」
「その……なんでも、好きな音楽ゲームの“てすとぷれい”が今日からだとかで、都川さんと一緒に学校も休んでゲームセンターに行ってるんです」
「こんな時に何やってんだよ、あいつは……」
 酒井が呆れきった表情でそう言葉を返す。それは独り言のようでもあったし、はるかに向かっての言葉であるようにも思えた。酒井はポケットをまさぐりそこから携帯電話を取り出すと、少しだけ操作してそれを耳に当てた。
「じゃあ、足立でもなんでもいい」

 

 

「どういうことだい?」
 足立は7:40頃の時点ではもう登校していたらしい。もちろん教室は空いていなかったのだが、中庭で一人本を読んでいたのだそうだ。グラウンドの隅にいた二人には気づかなかったという。
 事の顛末を知らない足立は、見知らぬ人間が一人いるということで少し困惑しているようだ。
「野球部を潰すっていう厄介なお嬢さんがいるんだよ」
「潰す?」
 すると足立は口元にふっと笑みを浮かべて見せた。
「それは穏やかじゃないな」
 足立は詰襟のカラーの部分を少し触りながら彩乃の前に立った。
「はじめまして。野球部の足立真吾です」
「あら。これはご丁寧に。わたくしは倉橋彩乃ですわ」
「倉橋さん、野球部を潰すというのはどういうことかな」
「先ほども説明したのですが、ソフトボール部の練習が出来なくなるということが一番の理由ですわね」
「野球部もソフトボール部も同じ部活動だよ」
「ソフトボール部は今まで数々の素晴らしい成績を残している、恋恋にとって必要な部活動ですわ。それに対して野球部は――」
「つまり、成果を残せばいいんだね?」
「今すぐに? 出来るのですか?」
「さあね。とにかく少しだけ待ってくれないかな。その内僕たち野球部が必要だということが必ずわかるさ」
「……わかりました。また様子を見に来ます。ただ、何も変わる様子がないようであれば……わかりますね?」
 その言葉がきっかけになったかのように、彩乃は振り向き後者に向かって歩いていった。そのとき、はるかの方を向いて「ふふん」と笑ったのを、足立は苦笑しながら見送っている。お嬢様の気まぐれにも困ったものだな、とそんなことを考えながら空を見上げた。春の強い風がたなびき、天へ向かって消えてゆく。それは、恋恋高校野球同好会のこれからの動向を後押しするかのようでもあったし、まるで嘲笑うかのようでもあった。

 

 

 午前の授業が終わり、廊下が生徒たちの声で騒がしくなってくる。足立は今日の昼食のメニューを考えながらふらふらと階段を下りていた。この間は購買のパンだったし、今日は久しぶりに食堂にでもいこうかな。恋恋高校の食堂は評判がとてもいい。値段もなかなか良心的だし、なによりもメニューが豊富なのだそうだ。
 しかし一人で食堂に行くのも心細い。都川でも誘おうかとC組に向かって歩き出した。桐島はいつも弁当だし(オレって慢性的に金欠なんだ、とその時に言っていた)、あおいははるかと一緒だ。その点都川はいつも違う生徒と昼食を共にしているようだ。まぁ毎回いろんな人を誘っているとなると必然的に女子生徒が多いということになるのだが、そのことを快く思っていない女子も多かった。だからたまには都川も男と時間を共にしたいだろう、という想いもあった。もう少しでC組に着くな――と思ったその時、
「シンゴ」
 ふと、自分の名前を呼ばれ振り返る。すると、足立の瞳は大きく見開かれることになった。ふわふわとウェーブのかかった亜麻色の髪の毛は背中まで伸び、途中で一つに結ばれている。眉は少し太めだが女性的で優しい印象を受ける。釣り目気味にあがった細い瞳は猫のようで、黒縁眼鏡によく似合っていた。
 その女性――白川麻美(しらかわ あさみ)は振り返った足立を見て、にっこりと笑ってみせた。まだ驚いて返事が出来ないでいる足立を知ってか知らずか、とにかく一歩踏み出して足立の方まで近寄ってくる。足立は少しだけ右手を上げ、なんとか振り絞ったかのような声で「やあ」とだけ言う。
「久しぶりだね、シンゴ」
「ああ――」
「どうしたんだい? まるで鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしているよ」
「そりゃあ、そうさ。なんで君が恋恋にいるんだい?」
「決まっているだろう。シンゴを追ってきたのさ」
「え?」
「君が恋恋に入学すると聞いて、居ても経ってもいられなくてね」
「相変わらず君の冗談は笑えないな」
「くく。残念ながら冗談ではないんだよ」
「まさか。なんのため?」
「そう迷惑そうな顔をしないでくれ。私はシンゴに何も求めないさ」
 麻美はふと足立の顔を見て、挑戦的に笑ってみせた。
「なあ、シンゴ。君は恋恋に来たというのに、野球同好会なるものに入っているんだって?」
「ああ、相変わらず耳が早いな」
「くく。君のことならなんでもさ」
 そう言いながら笑った麻美の瞳を見て、足立は一瞬だけ劣情を催しそうになったのをなんとか堪えきった。そうだ――あの頃はいつも彼女のこの妖艶な瞳に飲まれていたんだっけ――。
 白川麻美は、足立の中学時代の級友だった。1年の時に出会い、そして足立は一目見たその瞬間から彼女に惹かれていった。しかし――最初は恋ではなかったと覚えている。そう。途中までは、二人は完全にお互いを親友だと認識していた。その均衡を破ったのは――やはり麻美であった。麻美に対して常に友情を与え続ける足立だったが、麻美は不満を募らせていた。やがて麻美は足立に自分の愛情を告げ、二人は交際を始める――が――。
 少しだけ頭が痛くなってきた。麻美に別れを告げた瞬間を思い出し、足立は少しだけ気分が悪くなる。なるべくなら思い出したくなかった。彼女を傷つけたその瞬間を――いや、忘れることなんか出来やしないし、するべきでもない。ただ、自分の心の奥底に閉まっておきたかった。それは――男のエゴなのだろうか?
「安心してくれ。君に対して都合が悪くなるようなことなど言わないさ」
「え、あぁ、うん」
「ところでシンゴ、もう昼食の時間だが、君はどうするのかな」
「ああ、食堂に行こうかと思ってるけど」
「そうか。もしよければ一緒に行かないか?」
「えっと、それは」
「くく。親友の頼みじゃないか」
 また、彼女の妖艶な笑みが足立を惑わせる。
 いけない。麻美は――彼女は、違うんだから・・・・・・
 答えを出しあぐねている足立を見て、麻美は足立の肩をぽん、と叩いた。
「失礼。今のはあまりに嫌味だったね。まぁ、今日の所は残念だけど一人で行くさ」
「ああ。ごめんよ、麻美」
「なに。気にしないでくれ。私たちは――“親友”なんだから」
 それだけ告げ、麻美はくるりと身を翻して廊下の先へと歩いてゆく。階段ではなく廊下に向かったところを見ると、きっと彼女は購買部に行くつもりなのだろう。あえて食堂を選ばなかった麻美の気遣いに心苦しい想いをしながら、足立はC組の前へと歩いてゆき――クラスの扉を開けることなく、1階へと向かっていった。
 なんだか今日は、一人で昼食を取りたい気分になっていた。

 

 

 思い切り投げた白球は、心地の良い音を立ててネットに収まっていった。早川あおいはふと落ちたボールに目を落とし、軽く息をついた。それはため息のようでもあるし、自分を落ち着かせるためのようでもある。
 自分はこんなところでをやっているのだろうか――。桐島も都川も、希望に満ちた未来を夢見て白球を追い続けているというのに、自分の想いだけが軽いように思えた。足立は……よくわからないが、とにかく恋恋高校野球同好会は少なくともあおいにとって環境の良い場所ではなかった。
 少し右腕が疲れてきた。あおいは軽く腕を二周ほど振ると、ネットのそばに座り込んだ。目を瞑ると、瞼の裏に消えない記憶が蘇る。
 あれは雷の鳴る夜だった。まだ言葉も覚えたばかりで、記憶もあやふやではあるが、一つだけはっきりと覚えていることがある。――母親の、泣き顔――。理由は難しいことだったから正確には覚えていない。“お金はどうすれば”――“どうしても帰れないの?”――“一目だけでも”――“この子は”――――。
 子どもながらに何か悪いことが母親に圧し掛かっているということだけは理解できた。あおいは母親に習うように大泣きしながら母の腰にしがみついた。そんなあおいを見て、あおいの母親はいっそう大きく、だが声は押し殺すようにして咽び泣いていた。
 あおいの父親は野球選手だった。が、あおい自身は会ったこともないし、それどころか見たこともない。いや、見るのも嫌だった。幼い自分と母を捨て、野球などにうつつを抜かしていた父を、あおいは許すことが出来なかった。許せなかったからこそ、こうして白球を握ることが出来る。
 ――いつかプロのマウンドで、父を叩き伏せてやる――。
 そんな想いだけで走り続けたようなこの15年。あおいははじめて『純粋な野球への想い』を持つ者たちに出会い、困惑していた。桐島や都川と共に野球をする資格が自分にあるのだろうか?
 あおいは答えを出せずに、ただ俯くことしか出来なかった。


 少しばかり眠っていたようだ。あおいははっと目を覚まし、辺りを見回す。どうやら昼休憩はまだ終わっていないみたいである。慌てて携帯を取り出して画面を見る。デジタルに表示された文字は――13:05――午後の授業開始まであと三十五分ほど……あおいは立ち上がり、ん、と伸びをした。少しだけ空腹感がある。そういえば昼食をまだ取っていなかった。食堂に行って食べるには時間が若干足りないか。あおいは購買部でパンでも買おうかとそんなことを思っていた――その時。
「えっと、早川さん?」
 二人の男子生徒が目の前に立っていた。
 一人は坊主に近い短髪に細い眉をしており、少しだけ威圧感がある。もう一人は対照的に長髪であった。肩まで伸びた長い髪の毛は両サイドで少しだけ跳ねており、所々細い髪の束がくるくると飛び出している。制服から投げ出された腕は非常に華奢で、細身であった。
 短髪の男のほうがぺこりと頭を下げ、にっこりと笑ってみせる。釣られるようにして愛想笑いをするあおいだが、自分でも強張っているのがわかり、心の中で赤面する。
「どーも。おれは朝倉っていいます。こいつは韮沢。両方同じ1年」
「あ、うん。朝倉君と韮沢君」
「早川さんさ、野球同好会を作ってるんだって?」
「うん、そうだよ」
「あー。よかった」
 朝倉が左頬を人差し指でこすってみせる。
「おれ達二人とも陸上部をやってたんだけどさ。昨日理事長の孫とかいう女の子が来て部活を潰されちゃったんだよね」
 部活を潰された……?
 そういえば、1時限目が終わった後、はるかからそんな話を聞いたような気がする。早朝に自主練習をしていたときに理事長の孫がやってきて、野球部が恋恋に不必要だと言われたと……。確かそのときは足立がなんとかいさめたと言っていたのだが――。
「それでこの学校って部活に所属しなきゃいけないだろ? だからよかったら入れてくれないかと思ってさ」
 困ったように両手を広げてみせる朝倉を見て、あおいは少しだけ笑みをこぼしてしまう。
「うん。もちろん大歓迎! ありがとう、朝倉君、韮沢君」
 とびきりの笑顔で歓迎するあおいだが、内心は喜びを感じながらも、不安感があるのも否めないでいた。
 現に一つの部活動が潰されている。もしかすると、今から作ろうとしている野球部が潰されてしまうという可能性も無いわけではないということだ――。
 違う。
 あおいは自分を頭の中でしかりつけた。
 また、探しているのか。自分が野球をやめる言い訳を。
 続けると決めた。あの男に復讐をするために野球を続けると誓った。だからこそ――この野球部を潰してはいけない。桐島や都川や酒井、そして足立やはるかまでもの想いを裏切ることなんて出来やしない。この恋恋高校で、集まってくれたみんなで――甲子園を目指そう。

 

 たとえ自分の想いが、みんなと違っていようとも――。

 

 

 

 

 

>>#4.つま先立ちで(笑)


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