#5.HAPPY DANCE

 

 瞼が重い。昨日の寝不足がたたってなのか、足立はしきりに目をこすっていた。ただ落ち着くためにやって来た図書室の雰囲気のせいなのかそうでないのかわからない。とはいえ、別段何かがあったというわけではない。ただ、単純に夜更かしをしてしまったのだ。やったことといえば、小説や漫画を読みふけったり、夜中に近所を散歩してみたりと……今思えばなんのこともないことだった。それで結局昨日ベッドに入ったのは深夜の三時だというのだからばかばかしい。なにもまだ一週間の半ばである水曜日にそこまで夜更かしをする必要もなかっただろうに。足立は、もう一度生あくびを噛み殺した。
 恋恋高校の図書室は広い。地方の小さな図書館くらいの大きさはあるだろう。足立は恋恋高校の図書室が好きだった。生徒数も相まってかそれほど人は入ってこないし、なにより静かだ。とはいえまるきり無音というわけではなく、小さな音量でクラシック音楽がかかっている。こんな所で勉強なんかすればはかどるだろうな、とそんなことを考えながら足立は一人ルーズリーフのようなの冊子に目を落としていた。
 足立が読んでいるものは、恋恋高校の生徒名簿であった。今朝に教務室から持ち出したものなのだ。まだ教師が一人もいないであろう時間帯に登校し、一枚コピーして持ってきた。こういうことを平気で行うところが、足立らしいといえば足立らしい。
 時間はまだ7時45分。朝のホームルームまで時間はたっぷりある。この名簿を全部見終わっても時間は余るだろう。そうなれば何か好きな本でも何冊か借りて帰るのも悪くない。足立はそんなことを考えながら名簿の最後のページをめくっていく。
 静かな図書室に突然何かの音が響いていった。どうやら扉の開閉する音のようだ。誰か来たのかとも思ったが、生憎ここからではその何者かの姿を見つけるのは難しそうだ。足立は反射的に名簿を隠し、机の上にあった文庫本に手を伸ばす。
 コツ、コツ、と革靴の音が規則的に響いてくる。足立は心臓の鼓動が少し早くなるのを感じながら、さも読書に夢中で気づいていないふりをしていた。目の前にある曲がり角から、何者かの気配を感じる。足立はまだ、文庫本に目を落としたままだった。
「あれ? 足立くんじゃない」
 と突然声をかけられ、足立は驚いて顔を上げる。そこに立っていたのは一人の女子生徒だった。小さな身体に華奢な体系。ほんの少しだけ短くなっているスカートは彼女なりのお洒落なのだろうか。今日は見慣れたおさげ髪ではなく、ストレートに下ろしていた。
「やあ、あおいちゃん」
 彼女――早川あおいは足立を見つけると、目を丸くして驚いていた。それはそうだ。この時間帯だと図書室に誰かがいるとは思いもしなかっただろう。足立は開いていた文庫本を閉じると、あおいに向かってにこやかに笑ってみせた。
「どうしたんだい、何か用事かな?」
「うん。借りてた本の返却日が今日なんだ。すっかり忘れちゃってて」
「で、忘れないように今日は早めに来たってことか」
「まあね。それで足立くんはどうしたの?」
「僕は――」
 正直に言っていいものか、少し悩んだ。なにせ今自分が行っていることは必ずしも全うな行動といえるわけではない。しかし――あおいに嘘をつくのも心が引ける。少しだけ悩んだ後、足立ははっきりとした声で答えた。
「うちの生徒名簿を見ていたんだ」
「えっ? 生徒名簿? どうして?」
「ちょっと気になることがあってさ」
「うん、なに?」
「恋恋高校はAからFの全六クラスだろう? そのことがちょっと引っかかっててさ」
「へえ、どうして?」
「僕はAクラスで、男子は僕一人だ。それでクラスの総数が六。もしかすると、男子生徒の数が足りないんじゃないかって」
「あ……」
 あおいの表情が若干曇った。
 そう、足立が何故教務室に忍び込むという非合法な行動までして名簿が見たかったのか、その理由がそこにある。今年からはじめて共学になったという恋恋高校。ならば、男子生徒の総数はどれほどのものなのか。答えは――
「その結果、僕、桐島、都川、酒井くん、朝倉くん、韮沢くん。合計六名が恋恋高校の男子生徒だったよ」
「六人……」
「そこにあおいちゃんが加わるわけだけど、それでも七人だ。――残念だけど、今年だけ試合は出来そうにないね」
「……」
「まあ、そう悲観することもないさ。なにせ出来たばかりの部活だしね。一年は地盤を固めるという風にしても悪くはない」
「そうだけど、やっぱり残念だよ」
 あくまであおいは気丈に振舞おうとしていた。それでも声、表情から落胆の意は見え隠れしている。足立に自分自身を叱咤する気持ちが沸いてくる。事実とはいえ、自分の意見であおいを悲しませてしまったことが、足立にとってなによりも辛かった。何もいわず唇をかみ締めるあおいを見ない振りをして、足立はわざと明るく話し出した。
「ところであおいちゃん、今日ははるかちゃんと一緒じゃなかったんだね」
 足立の唐突な質問に、あおいはびっくりして体を強張らせる。
「え、うん。毎日一緒に登校してるわけじゃないから」
「あぁ、そうなんだ」
 といって足立は右手首の腕時計に目を落とす。時刻は――08:14。そろそろ朝のホームルームが始まってしまう。足立は文庫本と名簿を手に取り立ち上がった。そろそろ行こうか。声をかけたあおいの表情は、やっぱり曇ったままだ。そんなあおいを見て足立は、なんだか今日一日暗い気分で過ごすかもしれないなあ、と思ってしまった。

 

 

 朝のホームルームが8:30というのは絶対に早すぎる。都川は入学して一ヶ月が経とうかとしているというのに、未だにそんなことを思っていた。都川は朝に強い方ではない。今までも一時限目はよく遅刻していた。いつも桐島にモーニングコールをしてもらっているのだが、今日はたまたま時間通りに目を覚ますことが出来た。これなら一日スッキリした気分でいられるな、と思ったのも束の間。家を出る頃にはすでにもう眠気が襲ってきていた。最寄の駅に着いた頃にはすでに眠気はピークに達していたのだが、今日はなんとか持ちこたえることが出きた。それもこれも、みんな改札で見つけた酒井のおかげだった。
 酒井を見つけた瞬間、都川はマシンガンのような勢いで話を始めた。野球のことやそのほかたくさん。離している間は眠気を忘れることが出来る。そのはけ口になった酒井は気の毒だ。もちろん都川もつまらない話を延々としているわけではないので、まあ退屈させはしなかったのだろうが。
 恋恋高校の校門が見えてきた。なんとか眠気も持ちこたえることが出来たぞと心の中でガッツポーズをしながら、それでも隣の酒井に対しての話は未だとどまることを知らなかった。 
「というわけで、熱い三流なら上等なんだよ」
「ふーん」
 最寄り駅から恋恋高校までのおよそ20分。さすがに喉がかれてきたのだろうか、都川はそれだけ言うと一息ついた。その頃になってようやく酒井は一息つくことが出来た。もう校舎は目の前にある。いつものように見慣れた校門をくぐって――。
 違和感を、感じた。
 それは一瞬の出来事だった。何かがいつもと違う。その想いが沸いてきた頃には、もうその原因を突き止めることが出来ていたからだ。
 誰かが倒れている。
 校門のすぐそばだった。見慣れた恋恋高校の制服を羽織ったその人物は、地面に突っ伏すように倒れこんでいる。誰かまではわからない。ただわかったことは、女子生徒であるということだけだった。
 慌てて手を差し伸べながら都川が駆け寄ろうとしたが、それよりも早く酒井が走り出した。目の前を疾走する酒井に続くように都川も慌てて走り出す。
「おい、大丈夫か?」
 酒井が女子生徒を抱き上げる。その時に、その女子生徒の顔がこちらを向いた。
 女子生徒は、七瀬はるかであった。
 はるかの元々白い顔は土気色に変わっており、まるで生気が感じられない。頭にまで力が入っていないのか、まるで人形のように首が据わっていなかった。眉間に若干の皺が寄っていることから、なんとか最悪の事態にはなっていないということだけ窺える。
 はるかは小さくうめき声を上げながら、酒井の体に両手を差し伸べる。抱きついているような姿勢になっているが、おそらく無意識のことだろう。酒井は少しだけ動揺したように見えるが、すぐさまはるかの体を揺すぶりかける。
 はるかの瞳が薄く開いてきた。しかしその焦点はまだ合っていないようで、どこか虚ろである。酒井はすぐに「七瀬?」と名前を呼んだ。
「あ……酒井、さん?」
「大丈夫か?」
「わ、私また……すみませんでした」
 状況がつかめたのか、はるかは酒井に向かって申し訳なさそうに眉をしかめて詫びて見せた。
「驚いたぜ。校門の前でブッ倒れてるんだもんな」
「本当に……ご迷惑をおかけしました……」
 消え入りそうな声だ。どうやらまだはっきりと覚醒していないようだった。よく見てみれば瞼も少しだけ閉じそうになっている。
「いや、まあいいんだけどよ」
 それだけ言い、酒井は一呼吸だけ置いた。その意味がわかったのか、はるかは慌ててまわしていた両腕を離す。
「ごっ、ごめんなさいっ」
「あぁ、いや……それより心配だからよ、保健室まで連れてってやるよ」
「えっ? でもそれは酒井さんにご迷惑ですし……」
「いいよ、ここで放っぽりだすの方がどうかしてるぜ」
「あ、ありがとうございます……何かお礼をしなくてはいけませんね」
「はぁ? いやいや、いいってそんなの」
「そうでしょうか……あっ」
 はるかの体からまた力が抜けてゆく。その瞬間、酒井はまるで見透かしていたかのように素早くはるかを抱き上げた。
「いいからもうお前は黙ってろ」
 そう言って、酒井ははるかの背中とひざ裏に素早く腕を忍ばせると、いとも簡単にはるかの体を持ち上げた。
「わわわっ」
 驚いたはるかが思わず、酒井の首に両腕を回す。
「お、捕まれるくらいの元気はあるんだな」
 に、と歯を見せて笑うと、酒井はそのまま首を回し、都川の方へと振り向いた。
「よう都川。とりあえずおれ七瀬を保健室まで連れてくから」
 その光景をずっと見ていた都川は、なんとなく言葉を発しにくいようであったが、なんとか振り絞るようにして口を開いた。
「ああ。ヘンなことすんじゃねーぞ」
 するかよ、バカ野郎。簡単な捨て台詞を残して、酒井はそのまま校門をくぐって保健室へと向かい出した。
 それにしても、酒井も力がある。いくら小柄な女の子とはいえ、かついで歩くのはかなり体力が必要なはずだ。それをなんのためらいもなく出来るというところに、都川はなんとなく男として負けたような思いを抱いていた。

 

 

 何故桐島の表情が曇っているのか、その理由があおいにはわからなかった。
 以前、グラウンドに理事長の孫である彩乃がやってきたことを話した途端、桐島は一気に顔をゆがませて見せた。確かに練習場所であるグラウンドが使えなくなってしまうということは実質廃部に近い状態となってしまうことは確かだ。ただ、桐島の表情の中にはそれ以外の感情もあったようにあおいは感じていた。
 今日の練習開始はいつなのだろうか? 今日は短縮授業だったので12:40の時点で終業しており、今の時刻は13:15だった。キリが良い時間でいえば13:30か14:00といったところだろうか? しかし、桐島は道具の準備はおろか、着替える素振りすら見せていない。ただ今までずっと黙ったまま座り込んでいる。その瞳は何かを考えているようにも見えるし、何かに悩んでいるようにも見える。そんな桐島と二人きりなので、どうも間が持たない。なんとなく居心地の悪さを感じてか、あおいが「ねえ」と話しかけた。
「潤くん、今日の練習はどうするの?」
 手のひらに顎を乗せて座り込んだまま、桐島は「ああ」とだけ短く答えた。
「ちょっと、待ってくれるか」
 目線も合わさずそう言うと、桐島はまた再び黙り込んでしまった。あおいは気づかれないように若干のため息をつくと、桐島から少しだけ離れたところに座り込んだ。スカートを折り、ゆっくりと空を見上げる。小さな雲が所々にあるけれど、水色の空が一面に広がっている。今日も、良い天気だ。
 遠くから人がこちらに向かっているのが見える。どうやら、足立と都川のようだ。あおいは立ち上がって、二人に向かって手を振った。
「やあ、あおいちゃん」
 そう言ったのは足立だった。足立の姿を見て、あおいは妙な違和感を感じた。
「あれ? 足立くん、上着はどうしたの?」
 足立は学ランを羽織っていなかった。5月なので衣替えはまだのはずだ。その証拠に、隣にいる都川も桐島も学ランを着込んでいる。
 あおいの設問に、足立は一瞬黙り込んでしまった。その少しだけのタイムラグに、あおいの頭にハテナマークが浮かぶ。
「ああ――そうだ。保健室に忘れてしまっていたな」
「保健室? どこか具合が悪いの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど、ちょっとね」
 それだけ言うと、足立はにっこりと笑って見せた。
 足立の笑顔は好きだ。優しくて、見ているこちらも心が穏やかになるようだから。しかし、あおいはその大好きな足立の笑顔に、少しだけ壁を感じていた。まるで、「これ以上は駄目だよ」と拒絶されているようで――。
 そんなはずないか。
 あおいは頭の中で首を振ると、「そっか」とだけ短く答えると、今の状況を二人に向かって簡単に説明した。
 足立は何も言わなかったが、都川だけ納得がいっていない様子であった。
「ふうん。潤のヤツ、何隠してんだろうな?」
「わかんない。うーん、でもちょっとだけ待ってくれっていうんだから……何かはあるんだろうね」
「まあいいじゃないか。桐島がそう言うんなら、多分何かの考えがあってのことなんだろう。僕らはそれに従えばいいさ」
 そう言って足立が腰を下ろそうとした……が。そのとき、あおいはふと足立の目線が遠くに飛んでいることに気がついた。釣られるように振り替えると、そこには見慣れない人影があった。
 恋恋高校グラウンドの向こう、二人の高校生らしき男が立っていた。その二人は見慣れない学生服を羽織っている。恋恋高校のような学ランのタイプではない。その濃緑色をした学生服にはボタンがついておらず、ホックかファスナーで止めるタイプのようだ。どこかで見たことのあるタイプだが……あおいには思い出せずにいた。
 足立がその二人に向かって歩き出した。あおいは慌てて足立に続く。なぜかはわからない。だが、足立の足早なその態度に釣られてのことだった。それを証拠に、後ろには都川もついてきていた。
 二人をフェンス越しに見て、あおいは驚いてしまった。というのも、その二人があまりにも美系であったからだ。一人は肩近くまで伸ばした真っ白な髪を無造作に纏めている。赤い瞳が印象的で、猫のような印象も受ける。背は高く、175センチはあるだろうか。隣にいるもう一人は、少しだけ身長が低い。170センチあるかないかというところだ。黒く長い髪は太陽の光で赤く映え、縛った毛先が腰のあたりまで伸びている。そして彼は、驚くほどハンサムであった。
 青磁色をした少し奥二重で切れ長な瞳はまるで吸い込まれそうな魅力を持っている。すらりとした体系に、濡れたような唇。テレビで見るような芸能人や写真集の中にいるアイドルなんかよりもずっと魅力的に見えた。
「すまない、目障りだったかな」
 長い髪の毛の男がそう口を開く。あまりに小さい声だったので聞き取るのがやっとなほどだった。男の声は少しだけ低い。だが、そこに男の色気を妙に感じてしまい、あおいは一人赤面してしまった。
「おマエ、誰?」
 隣にいた都川が男に向かって話しかけた。
「ああ。俺は聖皇学園の一文字明彦(いちもんじ あきひこ)。恋恋高校が共学になったと聞いて野球部があるかどうか見に来たんだが……少しだけ見学させてもらっていいか?」
「せ、聖皇学園?」
 思わず都川の声が上ずった。それはそうだ。聖皇学園高校といえば、この近辺でいえば最高の偏差値を誇る進学校なのだ。それだけではない。その聖皇学園には日本人なら誰でも知っているような政治家や大企業の御曹司などが毎年こぞって入学している。そりゃあ学園が武装した集団などに占拠された日には一大事である。もし学園の生徒全員を人質に取られでもしたら、一千億円単位の身代金を要求されてもおかしくはない。
 恋恋高校も高い偏差値を誇っている高校ではあるが、聖皇学園と比べれば生徒の質がまるで違う。つまり、目の前にいるこの二人も、なんらかの理由で大金持ちのはずだ。都川の声が上ずるのも無理はない。
「見学するのは構わないと思うけど」
 後ろでいた足立が口を開く。
「今日はまだ練習が始まっていないんだ。待たせるのも悪いし、申し訳ないけどまた日を改めて貰ったほうがいいんじゃないかな」
 足立の発言に、明彦はふん、と息を漏らして答えた。
「そうか。ならまた見に来させてもらうさ。……と」
 明彦がちらと自分の隣に立っていた白髪の男に目線を向けた。
「こいつの紹介がまだだったな」
「あ! オレ直人! 陽崎直人(ようざき なおと)な! よろしく! チッス!」
 陽崎の発言はすべてあおいに向けられていた。というよりもむしろフェンスの向こうから握手すら求めている。どう考えても無理だ。
「あっ、うん。よろしく陽崎君」
 これは答えないといけないと思ったのか、あおいが思わず返事をする。
「んもう! 陽崎君だなんて他人行儀な! ナオでいいって。もしくは“ナオくん”な!」
 と、それだけ言ったところで、明彦の拳が陽崎の横腹にめり込んでいた。
「ぐぼゥ!」
 悲鳴のような泣き声をあげ、陽崎が地面へとうずくまった。
「……悪いな。こいつは女を見ると見境なく口説きにかかる癖があるんだ。ところで、あんたはマネージャーか?」
「ううん。ボクも部員だよ。名前は早川あおい。ポジションはピッチャー!」
「へえ。女であるということは相当なハンディキャップだと思うけどな。まぁ、頑張れよ。地方大会で俺たちとぶつかるんだから」
「うん。負けないよ。一文字君」
 明彦は指で銃の形を作り、人差し指をフェンスの穴を通す。その先には、あおいの体があった。
「忘れるなよ、その言葉」
 そう言うと、明彦は身を翻して歩き始めた。そのとき、陽崎の首の後ろをつかみ引きずっていくことも忘れない。
 二人の姿が消えた頃、足立がふぅ、とため息をついて見せた。
「どうしたの? 足立君」
 足立は前髪を触りながら、あおいに向かって苦笑にも見える笑顔を見せていた。
「まさか一文字君と会えるとは思ってなかったからね。……そうか、東京に来ていたのか」
「え? 足立君、一文字君を知っているの?」
「一文字明彦っていえば、中学野球では有名選手だよ。確か、最高球速は150キロ近くあったはずだ」
 足立は、自分の胸が高鳴るのを感じていた。最高球速150キロ近くを記録する豪腕投手。更にはあの美貌も兼ね備えているときたものだ。プロ野球界が放っておく逸材とは到底思えない。その一文字明彦と実際に相見えたこと。それが、足立の胸をどうしようもなく高鳴らせていた。
 速球投手か。
 そう呟くと、足立は人知れず口元をゆがめていた。誰にも気づかれないように、そっと。

 

 

 

 

 

>>#6.恋心


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